Sunday, December 26, 2010

実録 被害者の怨念1「機会があれば復讐してやる」

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ttps://www.youtube.com/watch?v=ROZna2hVz3A
"Cloud Atlas"
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 (チャムラットから転生したタイ人少年の)ボンクチは、
(前世の自分である)チャムラットを殺害した
犯人は許せないという態度を示し、
機会があれば復讐してやる、と何年か言い続けた。  
時おり、武器のつもりで短い棒を持ち、
チャムラットの殺人犯に見立てた枕をそれで殴りつけることもあった。
その際いつもボンクチは、ふたりの名前を口にしていた。
   『前世を記憶する子どもたち』イアンスティーブンソン (p.113)
   ttp://plaza.rakuten.co.jp/cyousenrekishi/diary/200902060000/

アメリカの高名な精神科医イアンスティーブンソン博士は
科学者の目で妄想などの可能性を論理的に注意深く排除し、
それでも残った転生としか考えられない事例を集め
2冊の学術書を著した。
 同書によれば前世の自分が誰かに殺された子どもの場合、
その殺人犯の名前さえも覚えていることが多いという。

  自殺はあくまで本人の意思で死ぬのだから
殺人とは違う、と言い逃れしたい集団ストーカーのメンバーも
いるかもしれないが、それは認識が甘すぎる。
 ガスライティング犯罪に遭わなければ“自殺など
考えもしなかったはずの被害者が命を落とせば
司法がなんと言おうと「人殺し」だ。
 死者の怨念があるとしたら
ストーキング加担者全員が、人間ひとりが殺された怨みを
等しく受ける覚悟をすべきだろう。

---------------------(補遺)-----------------------------

  20世紀に台頭したSocial Darwinism(社会進化論)は、それがエセ科学であるだけでなく、いかにも下衆の考える、お粗末かつ有害な妄想に他ならない。此れはナチスがドイツ民族の洗脳とユダヤ民族のホロコーストに社会進化論を利用し、また現代アメリカの集団ストーカー犯罪者らも国民を洗脳して無辜の民を迫害させるのに利用するなど、自らの犯罪を自己正当化するのに好んで用いていることからもわかる。
  ではSocial Darwinism(社会進化論)のどこがマヌケなのだろうか?これまでの考察でおわかりのとおり、進化論自体が、「我々はどこから来たのか我々は何者か、我々はどこへ行くのか(D'ou venons-nous? Que Sommes-nous? Ou allons-nous?)」(ゴーギャン)という生命への根源的な洞察が全く欠落している。この点に致命的な不備がある。死と次の生との間(マ)の考察がスッポリぬけているから決定的にマヌケなのだ。当ブログ<集団ストーカーの死>で採り上げた選集を隈なく読めば、「適者生存」だけでなく「適者誕生」まで考慮しなければ、例えばどれほど生物の標本や化石やDNAを採取したところで、生物界を遍く俯瞰することは到底できないことに気付くだろう。


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(抜粋部分の書籍本文)


 ボンクチ・プロムシンは、1962年2月12日に、タイの
ナコーン・サクン省ドンカ村で生まれた。

父親のパモルン・プロムシンは、ドンカ村近郊の
ある学校の校長を務めていたため、ささやかな収入しか
なかったものの、ある程度の教育は受けていた。

まとまった話ができるようになるとすぐに、(あるいは
おそらくはそれ以前から)、ボンクチは前世について
話し始め、徐々に具体的な内容を家族に
話して聞かせるようになった。

それによるとボンクチは、ドンカ村から9キロほど離れた
ファタノンという村の出身だというのである。

また、チャムラットという前世の人格の名前とともに、
チャムラットの両親の名前を口にした。ナイフや自転車など
かつて自分が持っていた物についても語り、家で二頭の牛を
飼っていたことも話した。
(ボンクチの家族は牛を飼っていなかった。)

最終的に本人は、ファタノンで行なわれた村祭りの日に、
ふたりの男に殺された時の模様を語ったのである。


犯人たちは本人に数ヶ所の刺傷を負わせたうえ、
腕時計と首飾りを奪い、野原に遺体を投げ捨てて
逃走したという。以上の話をボンクチがしたのは
二歳頃であった。

ボンクチによれば、チャムラットが死んでから本人は、
現場付近の樹上に7年ほど留まっていたという。

そして、ある雨降りの日に、(現在の)父親の姿を見つけ、
バスに乗って自宅に帰る父親について行ったというのである。

ボンクチの父親がその後思い出したところでは、
妻がボンクチを妊娠してまもない頃、ファタノンまで
出かけたことがあったという。そこで行なわれた
ある会合に出席したのであるが、その日は
雨が降っていたというのである。

母親のサワイ・プロムシンは、ボンクチを妊娠する前に
殺人現場周辺に筍狩りに出かけたことがあったが、
妊娠するどのくらい前だったかはわからなかった。

母親の話では、ファタノン村のチャムラット一家が
住んでいる地区には一度も足を踏み入れたことは
なかったという。

パルモン・プロムシンは職業柄、ファタノン村の教師たちと
ある程度の面識はあったが、ファタノン村には親戚は
いなかったし、実際につきあいのある人物もいなかった。

パルモン・プロムシンも妻も、チャムラットが殺された事件を
耳にしたことは一度もなかった。

チャムラットは殺された時点ではまだ青年であった。
ファタノンのような村で殺人事件が起こると、その知らせは、
ドンカ村をはじめとする近隣の村にも届いたことだろう。

とはいえ、このあたりでは殺人事件が頻繁に発生するので、
周辺で発生した殺人事件を住民が全て覚えているとは
考えられないであろう。

また、チャムラットはボンクチがそのことを話す
10年以上も前に殺されているので、ボンクチの両親は、
チャムラットが殺された事件は聞いていたのかもしれないが、
ほとんど注意も払わず、すぐに忘れてしまった可能性が
強いように思われる。


ボンクチが語った内容については、チャムラットの家族
(この一家はラオス人である)にも伝わり、何人かの家族が
ボンクチに会うためドンカ村までやってきた。

この頃ボンクチは2歳半ほどであった。その後本人は、
家族とともにファタノンの村に出かけた。このような
行き来によってボンクチが前世について語った内容の
ほとんどが事実と確認されたのである。

チャムラット殺害事件についてボンクチが語った中には、
刺殺された時の模様など、私の情報提供者(および、
後には私自身)にも確認できないものがあった。

検死が行なわれていなかったからである。
殺人犯のひとりは速やかに逃亡し、もうひとりは、
逮捕され裁判にかけられたが、証拠不十分のため
釈放された。

とはいえ、私が面接した何人かの警官は、
この殺人事件をかなりよく記憶しており、殺人犯と
目される人物の名前など、ボンクチが語った内容の一部に
ついては事実であることを証言してくれた。

(中略)

ボンクチの変わった行動は、前世にまつわる本人の
発言と同じくらい一家の注目を引いた。

前世に関連した発言が一番多かった時期には、
手を洗う時などに、家族の者からすると不潔な
行動を示したし、両親には理解できない言葉を
かなり使っていた。

ボンクチはまた、家族があまり食べないものや
喜んでは食べないようなものを非常に好んだ。

チャムラットの一家はラオス人であり(タイ人は
ラオス人を清潔という問題については自分たちよりも
気を配らないと考えている)、ボンクチが口にしていた
聞きなれない言葉はラオス語だったことがわかった。

本例は、真性異言(習ったことのない言葉を話す能力)
の有力な事例だと主張したいわけではないけれども、
ボンクチの家族の中には、本人が口にした単語を
使う者はいないので、私からすると、本人が
そうした言葉を通常の方法で身につけた可能性は
考えにくい。(ボンクチにラオス語を教えてくれるような
相手は、ドンカ村には一人もいなかった)

ボンクチが好んだ食べ物は、ラオス人が一般に
好んで食べる粘り気の強い米飯であった。

タイ人もこの種の米飯を食べないわけではないが、
ボンクチの嗜好は、タイの家族よりも、チャムラットの
ラオスの家族の方にはるかに近かった。

ボンクチは、チャムラットを殺害した犯人は
許せないという態度を示し、機会があれば復讐してやる、
と何年か言い続けた。

時おり、武器のつもりで短い棒を持ち、チャムラットの
殺人犯に見立てた枕をそれで殴りつけることもあった。
その際いつもボンクチは、ふたりの名前を口にしていた。

多くの事例と同じく、ボンクチも、おとなの自分が
不当にも子どもの体に幽閉されていると考えることが
時おりあった。

しばしばボンクチは、”おとな発作”とでも言うべきものを
起こした。大人のように歯を磨き(タイでは子どもは
ふつう歯磨きをしない)、近くの床屋でヒゲを剃って
ほしいと言ったこともあった。

ボンクチは同年輩の少女を無視したが、思春期を
過ぎた若い女性には近づいた。それに対して
女性たちはひどく驚き、警戒すらしたのである。

プロムシン一家を訪れたある女性は、もっと長く泊まる
予定で来たのだが、ボンクチに抱きしめられそうに
なったので、早々に退散した。

とはいえ、ボンクチには少々好色なところが
あったものの、そればかりではなかった。

仏教の修道僧になりたいと言い出すこともあったし、
手元にある生地で修道僧用の法衣を作って
欲しいと言うことも少なからずあったのである。

このように少々対立するボンクチの二つの衝動は、
チャムラットの態度と符合するように思われる。

チャムラットには、本人が死亡した時、将来を
約束し合っている恋人があった。それと同時に
チャムラットには宗教にも強い関心を寄せ、
修道僧になるつもりだと人に話していたのである。

『前世を記憶する子どもたち』P113~

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