Monday, December 24, 2012

酔生夢死是れ集団ストーカーの死なり


竹刀は四つ割りの竹ではないか。そうであれば・・当っこでよいではないかと主張される先生もおられる。竹ならばそういうことになる。スポーツでよい。然し持った竹刀を日本刀という観念で使うことになれば、之は命のやり取り、息の根の止めあいであり、生死の問題であり、修行目標としては、生死を明らめることになる。この心が人生の土台であり、刀を差さない現代でも役に立つのである。(中略)
是は哲学ではなく、禅であり道である・・この人間の道を修行するのである(p.1-2)

世間で問題にしている段位などは、(持田盛二)先生の念頭にはない。先生の十段の授与式の時・・先生の前へ証書を持って行き、先生が受けられた時に、合図をしてお祝の拍手をしようと・・段取りをしておいた。ところが・・証書を持って行ったら先生は、その証書をポーンと拠り投げてしまった。そして、「わしは、こんなものはいらない。実力がなくて、こういうものがどうして受けられるか。わしには、こういうものを戴く資格がない」と言われた。・・・先生は十段位を辞退されて、後輩に剣道修行の目的は段位ではない。人間形成である。人間形成の真髄は、念々正念相続にありという秘訣を、教えられたのである。念々正念の修行は、道場内だけではない。日常生活の上で、正念の工夫を絶やさない。これが本当の剣道です。(p.7-8)

いくら健康に注意して長生きしても、ただ生きているだけでは、それは生物と同じである。そうは言っても普通の人はたいてい、何ということもなく生きて、そのまま死んでゆく。こういうのを「酔生夢死」という。酒に酔ったように、また夢を見ているように、何もせずに無駄に一生を過ごす。こうなるのは本人は自覚しなくとも、名利によるところが多い。名誉や金に執着して「酔生夢死」になってしまう。またこれより以下は、ただ生活するだけに追われて、それで終わってしまう者もある。(p.198)
 真剣(一心)になるということはその人自体の問題。端からはどうしようもない。本人の「道」を求める心が篤い(かどうか)ということ (p.47) 。畜生というと(十牛図の)尋牛第一あれにも入りません。自己本位で、求道心なんかありはしない (p.28)
 
 幕末、越後に河井継之助という達人がいた・・・「世間でみんなが言っている心というのは、あれは心ではない。心というのは、自分が死んで棺桶に入って、四隅に釘をポンポンと打つ。それからあとの心が心だ」と言っている。(p.130)
 
 名利を超越するには「志」がなければいけない。山岡鉄舟は十五で「志」を立てた。十五歳のときの座右銘の、第一ヶ条が「うそ云うべからず」。そして「名利のために学問技芸すべからず」とある。あの人が大を成したのはそこにある。十五のとき、これだから。うそを言わない。そして名利のために学問をしない。それだからあれだけの大人物になる(p.103)

           『小川忠太郎範士剣道講話』
          参考動画:「劍道九段範士 小川 忠太郎」


  110、素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。

111
愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、知慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。

112、怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きるほうがすぐれている。

113、物事が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、事物が興りまた消え失せることわりを見て一日生きることのほうがすぐれている。

114、不死(しなない)の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。

115、最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きるほうがすぐれている。

『ブッダの真理のことば』中村元