Monday, May 22, 2017

一心不亂

…原町市南町の東本願寺別院や浪江町幾世橋の大聖寺をしばしば訪問した[廣森達郎]中尉は、戦いのなかの死とはなにかを問い続け、悟りを得ようと努力に努力を重ねた。

[血書]
破邪絶忠
我、今、宿善の助クルニヨリ、己二受ケ難キ人身ヲ受ケタルノミアラズ、生死ノ中ノ景勝ナルベシ。
水ずくも燃ゆるも何をか悔いざらむ
君に捧げし命なりせば
[…]
吾人罪業深キ人間ナレバ之ガ中核ハ我執ニ依リ覆ワレアリ
サレド一度大悲願ニ接センカ我執ノ我ハ御民我トナリ本体ハ確然タリ
[…]
昭和十八年十月二十日 記 於別院 達郎
(注=この血書は、飛行学校所在の原町東本願寺別院の北上上人を尋ね、夜を徹して問答し、ある心境に達して、自らの指先を切って認めたものである。)(p.p.251-252)



廣森達郎 原町在住日記[昭和十八年]

十月三十一日
浪江ノ青田ノ家ニ至ル。大洋ノナガメハ各別ナリ。返シテハ寄セ、寄セテハ返ス浪、コノ現象ハ神代ヨリ続キナオ無限ニ続カン。ナンゾ瞬時ノ人生ニ迷ワン


また大聖寺にあてた手紙は次のとおり。
「…西のほうに向かって大きくうたってください。耳をすまして聞きます。私の忘れられない歌は次のものです。
 うさぎ追いし かの山 こぶな釣りしかの川 夢は今も めぐりて 忘れがたき故郷……。さようなら 廣森」(p.42)



[神中佐手記より]

…説明終わると、廣森中尉は全員を集めて話をした。
「いよいよ明朝、特攻だ。いつものようにオレについてきてほしい。次のことだけは約束しよう。こんど生まれ変わったら、そして、それがウジ虫であろうと、国を愛する心だけは失わないようにしよう」

それを聞いて私は呼吸が絶たれるような衝撃を受け、事実いてもたってもおられなくなった。私は足ばやに離れ、とめどもなく流れる感激の、否、悲しみの涙をどうすることもできなかった。・・・[廣森中尉出撃の]二十七日早朝、牛島軍司令官を案内して首里山上に立った。
・・薄明のあの短い時間を利用しての突撃である。三機、また三機、そして三機が次々に首里山上を過ぎていく。いままで眠っていたように遊弋していた敵艦が慌てて動き出した。が、もはや間に合わない。ハヤブサのように降下する飛行機は吸い込まれるように次々に艦艇に命中する・・牛島司令官は、つと振り向いて「中央へ電文の起案を」 ― そして頭を垂れて目をつぶった。(p.p.41-42)


『嗚呼 原町陸軍飛行場』

Monday, May 15, 2017

倶會一處(倶に一処に会ふ)

福島県相馬郡原町本町一丁目 
松永ノ皆様

・・・魚本の連中[※原町の料亭の常連]は昨日此の地を元気よく南に飛び去っていきました[※特攻出撃のこと]。小生達も今日か明日でせう。
[・・・]
小生始めて参上してより出発迄親身に勝る御愛情をいたゞき深く深く感謝致すとゝもにお言葉にあまえていろいろご無理をいった事を深く御詫び申上げます。
[・・・]
カタ餅[※相馬名物の凍み餅]有難う御座いました。飛行中たべておいしかった事、全部たべないで一つだけ大事に持って居りますよ、原町の臭いをかぐ為に。小生は戦死したならば、伊セに帰らず、第一番に思出多き原町を訪れる事でせう。その時は足が無いからとて、おっぽりださないでくださいよ。
それから美喜ちゃん、小生の好きな音盤、白鳥をかけて下さい。遠い此の地で耳をすまして聞いて居る事でせう。


六月五日
 
西部一八九三四部隊気付特別攻撃隊
振武隊国華隊
陸軍々曹 加藤俊二
同    井上 清  拝



 私は、白鳥とパリー祭が表裏の一枚の大切なレコードを取り出した。雑音の多い古いレコードは、確かにこの白鳥の曲を耳すませて聞いている人が、遠くにいる様に感じられてならなかった。

八牧美喜子『いのち ― 戦時下の一少女の日記』


映画「トテチータ・チキチータ」予告編  

あなたには、守る人がいますか?

Friday, May 12, 2017

一期一会  自分の死を語ろう 

小山少尉は原町出発のとき次のことを書き残した。

「恋しき原町……という二編返しの文句があったが、ほんとうに原町は一度きたら去りたくない。民情豊かなる相馬 ―。比島のはてに消ゆるとも、また南海の露と消ゆるとも、忘れ得ぬ思い出第二のふるさと。相馬原町の発展を祈る。」

二〇年二月六日、フィリピンの空戦で戦死した。岡山県の出身、二十一歳だった。

『嗚呼 原町陸軍飛行場』 

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映画「トテチータ・チキチータ」パイロット版
  
トテチータって何?

この世に思いを残して亡くなった人間が、龍になって、
自分の家族とか、愛する人を空の上から見守っている —

Sunday, May 7, 2017

以心 伝心 (心を以て心を伝ふ)

 原町飛行場で訓練に明け暮れた若いパイロットたちが息抜きに訪れるのは、本町一丁目にあった松永ミルクパーラー、同二丁目の料亭魚本、栄町一丁目の料亭柳谷などがあった。
 特攻に飛び立たなければならない運命を知りながら、飛行場の人々は休みの数時間を明るく振るまい、くったくのない話に華をさかせつつ彼等は町の人々との交際をもったのであった。(p.37)

 松永牛乳店に集まるものが、“ベコヤ編隊”と自称すれば、松浦家(柳屋)に集まるものは“本家編隊”と自称した。(p.44)

 松永ミルクパーラーの美喜子さん(当時十五歳)は、原町飛行場関係者のことを、当時の日記をもとにしながら『いのち  ―  戦時下の一少女の日記』にまとめている・・・

 
一月八日

淋しい。今夜はどうしたわけか淋しくて仕方がない。にぎやかに皆で話していながらも・・・・・・。

久木元さん齊藤さんの面影、かわるがわる浮かんでくる。あゝ誰か、・・・・・・久木元さんか、斉藤さんか、寺田さんか・・・・・・

決行なされたのぢゃないだろうか。


 二十年一月八日の日記だが、実はこの日、寺田伍長(当時一九歳)は[単機、敵輸送船に突入し]リンガエン湾に散っていた。一九年八月から九月まで、少年飛行兵一三期の人々は原町で過ごした。同期二七人のうち戦死二〇人。当時、松永牛乳店はほそぼそとながら牛乳やアイスクリームの店をひらいていた。喫茶店などない田舎町である。彼ら少年[飛行兵]たちの外出日は、店は満員で椅子のあくことがなかった。寺田さんのグループもよくこられ、縁側に回って茶を飲みながら弁当をひらいたりしたこともあった……。(p.38)

『嗚呼 原町陸軍飛行場』

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一月八日の命日に[自分の日記に]この文章が書かれていた事を、私自身、三十年後まで知らなかった。この『秋燕日記』を編集中にその事に気付き、私自身とても感動した。この日の日記を何と解したらいいのか、偶然と言うべきか、少女の心が感じとったあの方の惜別の思いだろうか。

八牧美喜子『いのち ― 戦時下の一少女の日記』