Saturday, September 30, 2017

Mindfulness on your deathbed

Such a disinterested enjoyment of nature as shown by Shingen and Kenshin even in the midst of warlike activities, is known as furyu, and those without this feeling of furyu are classed among the most uncultured in Japan.  The feeling is not merely aesthetical, it has also a religious significance. It is perhaps the same mental attitude that has created the custom among cultured Japanese of writing a verse in either Japanese or Chinese at the moment of death. The verse is known as the “partig-with-life verse.” The Japanese have been taught and trained to be able to find a moment’s leisure to detach themselves from the intensest excitements in which they may happen to be placed. Death is the most serious affair absorbing all one’s attention but the cultured Japanese think they ought to be able to transcend it and view it objectively.

D.T. Suzuki, "Zen and The Japanese Culture"

[有名な故事「敵に塩を送る」など]戦の真最中に、信玄や謙信が示した、かかる利害を超越した「自然」の享楽は「風流」と呼ばれている。この風流の感情なきものは、日本では最も教養のないもののなかに入れられている。この感情は単に美的のみならず宗教的な意義をもっている。諸芸に通じた教養ある日本人の間に、臨終に際して詩歌をかく習慣を創始したのも、おそらくは同じ心的態度にもとづく。かかる詩歌は「辞世の詩や歌」として知られている。日本人は自分たちが最も激しい興奮の状に置かれることがあっても、そこから自己を引離す一瞬の余裕を見つけるように教えられ、また、鍛練されてきた。死は一切の注意力を集注させる最も厳粛な出来事であるが、教養ある日本人はそれを超越して、客観的に視なければならぬと考えている。
(p.93)


鈴木大拙『禅と日本文化』

らちもないことを始めて


 私は長い間、亡き方のお手紙を桐の手箱に納めて箪笥に秘めていた。それは原町飛行場で厳しい訓練に明け暮れていた若い飛行兵達から私に送られたものだった。
 昭和十九年秋、彼等は決戦に馳せ参じる決意で気負い立っていた。涙ながらに見送る私達に、或る人は淡々と、或る人は人間的苦悩をみせて別れて行ったが、どの人も自分達が亡き後も新聞、映画に戦果をたたえられて、いつまでも人々の胸に生き続けると信じて征った。
「新聞を見て下さいよ。」と口々に言った言葉が、ありありと私の耳に残っていた。
 しかし、敗戦を迎えたとき世論は一変した。特攻隊員は異常な人でもあるかの様に言われていた。
 可哀相に、生命を賭けて守ろうとした日本と、国民にののしられ忘れられるあの方々。敗戦であっても、生命をかけた行為が罪悪とまで言われなければならないことなのであろうか。
 私まで忘れてはしまえない。満州で特攻命令を受けて敗戦で生き残った主人に頼んだ。この手紙は私が生涯、大事に持ち続けます。死んだら私の柩に納めて一緒に焼いて下さいと。(p.1)

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 昭和四十九年、沖縄戦で戦死された六十六戦隊、川口弘太朗さんの弟、川口剛さんが原町の慰霊碑に参拝においでになった。
・・・「一生懸命作って、兄貴たちを逝かせてしまって…… 怠けてればよかった」。剛さんは、各務原の工場に勤労動員として行き、飛行機の部品を作っていたという。この言葉は、私達戦中派に共通の後ろめたい思いを代表している。私が懸命に慰問文を書き、役に立たない[自分の]身を嘆いた事は、あの方々を一途に死に追い込む事になったのではないかと悲しまれる。


 戦争責任というものがあるものなら、戦犯、軍人などばかりが罪人とは言えないのではないか。あの時代に生きた者一人一人罪を犯しているはずである。太平洋戦争の始まった日、十六年十二月八日に私の身辺で、困った事がおきたと言った人はなく、遠縁のおじいさんで日露戦争に従軍したことのある方一人だけだった。「らちもないことを始めて」と吐きすてる様に言ったのを聞いた。国民の大部分、真実をしらぬままではあるものの、戦争を喜んだのだ。いま戦争を知らない人達はよくこんなことを言う。「入隊を断ればよかったのに」とか「逃げればよかったのに」などと……。そんなこと出来るはずもなく、また、その様な発想もなかった。軍国主義の教育を受けて信じていた私達若者だった。


 流されて生きたのは、私達も、あの戦って死んだ人も同じだった。そして彼等は怒涛に呑み込まれてしまった。後世の人の批判にも賞賛にも答えるすべのない世に行ってしまった。生き残った私達は、当時の思いも行動も、こうして弁解する事が出来るが……。
 必死に生き、そして戦死した青年達の息吹きをいくらかでも伝え代弁してあげたい。(p.p.52-53)


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 ・・・[特攻隊員のひとりが原町を旅立った]この朝受けた電話も、心に残る一事だった。出発時刻変更を告げた後、受話器の向うの人は、語るべき思いも言えぬまま長い時間受話器を持っていた。そして答える言葉も持たず私も送話器の前に立ちすくんでいた。これから生きて語るべき言葉を、その一刻に圧縮した重い沈黙だった。十五歳の少女の私にはすべもない深い深い沈黙だった。その重みは私にずしりと伝わって来て耐えきれず、ついに私の方から別れの言葉を告げた。何故、私は別れを告げてしまったのだろう。受話器を持ちつづけた彼は何かを語ろうとしていたのではなかったか。受話器を置けば永別、手がしびれる程待ちつづけていればよかったのに。

 この手記を書きだした或る日、この電話の場をそっくり再現した夢を見た。その中ではさすがに私も十五歳の少女ではなかった。噴き出す思いを如何に伝えようかと焦って、問いかけたが、やはりあの日の様に受話器のむこうは一語も漏れて来ない深い沈黙のままだった。私は、「何で返事が出来ないんですか。軍の秘密なのですか」と叫んで夢から覚めた。今も軍の秘密などという事が夢にでる私は、生涯心に傷を負って生きていることを私自身知らされるのだった。(p.100)


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十月三日
[...]
いつだったか斉藤さんに人間の本能で自爆する時、自爆目標が目の前に大きく見え出すと、無意識のうちに飛行機をあげてしまふ。それでその時は飛行機をぜったいにあがらぬ様にしてしまふか、ピストルで自分の頭を射ち抜くかするんだと言ふ話を聞き、人間ってそんなものか知ら、今まで自爆なんて事を何の気なしに聞いて居たったけど、皆そんな風にして自爆してゆかれたのか。そんなにまで強い人間の本能をおさえて……と思ったら、暗い気持ちになるっていろゝと考へて居た時だったからなほ感[慨]深かった。(p.p.55-56)

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 敗戦後の特攻隊員、戦死者に対する世間の評価は冷たいものだった。
 軍部にあやつられ、単純に命を捨てた愚かな若者と思われていた。思い出を口にするのもはばかられる世相となっていた。
 いまになっても、前後の見通しもつかないまま行動すると「特攻」の名を冠らされる事をもっても、いかに当時、軽侮の視線をなげられたかわかると思う。
 ご遺族はどんなにつらかったであろう。大切な肉親を無理に奪われ、その上、冷たい世論を受けなければならなかったのだ。
 私は人間としての彼等と親しくつきあった。たとえ軍人であろうと、人として豊かな情感を持っていて、それでも、それを圧殺して任務を全うした人々だったのに、その噂すら話すことも出来ない。(p.p.119-120)

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 或る日「寺田さんが戦果をあげたのかどうか不明なのは残念でならない。命を捨てたのに」と遊びに来ていた青年に私がつぶやいた。
「だったら敵を大勢殺して死ねばよかったのですか」。彼に反論されて私は大変な衝撃を受け、頭をなぐられた様な思いだった。
 そうなのだ。戦果というのは相手を殺すことなのだ。人間である相手を。……
 それまで、私の頭の中は戦後三十年もすぎていても、戦争は机上の戦争と同じだったのかも知れなかった。

撃沈される船にのっているアメリカ兵も、親も子、恋人もいる人間であることに思い及ばぬ幼さというか、戦時中で、思考の止ってしまっていた人間だった。(p.135)


八牧美喜子『いのち ― 戦時下の一少女の日記』

Sunday, September 24, 2017

被災地タクシー運転手の幽霊体験

 今回の震災以後、岩手県や宮城県そして福島県でも、タクシーの運転手さんが同じような幽霊体験をしています。
道で手を挙げる人がいるので停車して載せ、行く先を聞いて走り出します。しばらくその目的地に向かって走るうちに運転手は気づきます。
「お客さん、あそこは今、瓦礫も片付いてませんし、行っても何もありませんよ」
場合によっては載せた直後、すぐに運転手が気づくこともあったようですが、「とにかく行ってくれ」というのが客の返事。仕方なく車を走らせ、目的地付近に着いて「このへんでいいですか」などと訊きつつ振り向くと、後部座席に人影がない、というのです。
 なかには後部座席が濡れていたとか、多少のバリエーションがありますが、同じような体験を相当多くのタクシー運転手さんがしているようです。


玄侑宗久『やがて死ぬけしき』


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 石巻ではタクシーに幽霊を乗せた運転手の体験談が多く聞かれ、その話を収集した大学院生の論文が話題になったことがある。(p.175)

畑中章宏『21世紀の民俗学』