Saturday, September 30, 2017

Mindfulness on your deathbed

Such a disinterested enjoyment of nature as shown by Shingen and Kenshin even in the midst of warlike activities, is known as furyu, and those without this feeling of furyu are classed among the most uncultured in Japan.  The feeling is not merely aesthetical, it has also a religious significance. It is perhaps the same mental attitude that has created the custom among cultured Japanese of writing a verse in either Japanese or Chinese at the moment of death. The verse is known as the “partig-with-life verse.” The Japanese have been taught and trained to be able to find a moment’s leisure to detach themselves from the intensest excitements in which they may happen to be placed. Death is the most serious affair absorbing all one’s attention but the cultured Japanese think they ought to be able to transcend it and view it objectively.

D.T. Suzuki, "Zen and The Japanese Culture"

[有名な故事「敵に塩を送る」など]戦の真最中に、信玄や謙信が示した、かかる利害を超越した「自然」の享楽は「風流」と呼ばれている。この風流の感情なきものは、日本では最も教養のないもののなかに入れられている。この感情は単に美的のみならず宗教的な意義をもっている。諸芸に通じた教養ある日本人の間に、臨終に際して詩歌をかく習慣を創始したのも、おそらくは同じ心的態度にもとづく。かかる詩歌は「辞世の詩や歌」として知られている。日本人は自分たちが最も激しい興奮の状に置かれることがあっても、そこから自己を引離す一瞬の余裕を見つけるように教えられ、また、鍛練されてきた。死は一切の注意力を集注させる最も厳粛な出来事であるが、教養ある日本人はそれを超越して、客観的に視なければならぬと考えている。
(p.93)


鈴木大拙『禅と日本文化』

らちもないことを始めて


 私は長い間、亡き方のお手紙を桐の手箱に納めて箪笥に秘めていた。それは原町飛行場で厳しい訓練に明け暮れていた若い飛行兵達から私に送られたものだった。
 昭和十九年秋、彼等は決戦に馳せ参じる決意で気負い立っていた。涙ながらに見送る私達に、或る人は淡々と、或る人は人間的苦悩をみせて別れて行ったが、どの人も自分達が亡き後も新聞、映画に戦果をたたえられて、いつまでも人々の胸に生き続けると信じて征った。
「新聞を見て下さいよ。」と口々に言った言葉が、ありありと私の耳に残っていた。
 しかし、敗戦を迎えたとき世論は一変した。特攻隊員は異常な人でもあるかの様に言われていた。
 可哀相に、生命を賭けて守ろうとした日本と、国民にののしられ忘れられるあの方々。敗戦であっても、生命をかけた行為が罪悪とまで言われなければならないことなのであろうか。
 私まで忘れてはしまえない。満州で特攻命令を受けて敗戦で生き残った主人に頼んだ。この手紙は私が生涯、大事に持ち続けます。死んだら私の柩に納めて一緒に焼いて下さいと。(p.1)

        ******

 昭和四十九年、沖縄戦で戦死された六十六戦隊、川口弘太朗さんの弟、川口剛さんが原町の慰霊碑に参拝においでになった。
・・・「一生懸命作って、兄貴たちを逝かせてしまって…… 怠けてればよかった」。剛さんは、各務原の工場に勤労動員として行き、飛行機の部品を作っていたという。この言葉は、私達戦中派に共通の後ろめたい思いを代表している。私が懸命に慰問文を書き、役に立たない[自分の]身を嘆いた事は、あの方々を一途に死に追い込む事になったのではないかと悲しまれる。


 戦争責任というものがあるものなら、戦犯、軍人などばかりが罪人とは言えないのではないか。あの時代に生きた者一人一人罪を犯しているはずである。太平洋戦争の始まった日、十六年十二月八日に私の身辺で、困った事がおきたと言った人はなく、遠縁のおじいさんで日露戦争に従軍したことのある方一人だけだった。「らちもないことを始めて」と吐きすてる様に言ったのを聞いた。国民の大部分、真実をしらぬままではあるものの、戦争を喜んだのだ。いま戦争を知らない人達はよくこんなことを言う。「入隊を断ればよかったのに」とか「逃げればよかったのに」などと……。そんなこと出来るはずもなく、また、その様な発想もなかった。軍国主義の教育を受けて信じていた私達若者だった。


 流されて生きたのは、私達も、あの戦って死んだ人も同じだった。そして彼等は怒涛に呑み込まれてしまった。後世の人の批判にも賞賛にも答えるすべのない世に行ってしまった。生き残った私達は、当時の思いも行動も、こうして弁解する事が出来るが……。
 必死に生き、そして戦死した青年達の息吹きをいくらかでも伝え代弁してあげたい。(p.p.52-53)


          ******


 ・・・[特攻隊員のひとりが原町を旅立った]この朝受けた電話も、心に残る一事だった。出発時刻変更を告げた後、受話器の向うの人は、語るべき思いも言えぬまま長い時間受話器を持っていた。そして答える言葉も持たず私も送話器の前に立ちすくんでいた。これから生きて語るべき言葉を、その一刻に圧縮した重い沈黙だった。十五歳の少女の私にはすべもない深い深い沈黙だった。その重みは私にずしりと伝わって来て耐えきれず、ついに私の方から別れの言葉を告げた。何故、私は別れを告げてしまったのだろう。受話器を持ちつづけた彼は何かを語ろうとしていたのではなかったか。受話器を置けば永別、手がしびれる程待ちつづけていればよかったのに。

 この手記を書きだした或る日、この電話の場をそっくり再現した夢を見た。その中ではさすがに私も十五歳の少女ではなかった。噴き出す思いを如何に伝えようかと焦って、問いかけたが、やはりあの日の様に受話器のむこうは一語も漏れて来ない深い沈黙のままだった。私は、「何で返事が出来ないんですか。軍の秘密なのですか」と叫んで夢から覚めた。今も軍の秘密などという事が夢にでる私は、生涯心に傷を負って生きていることを私自身知らされるのだった。(p.100)


          ******

十月三日
[...]
いつだったか斉藤さんに人間の本能で自爆する時、自爆目標が目の前に大きく見え出すと、無意識のうちに飛行機をあげてしまふ。それでその時は飛行機をぜったいにあがらぬ様にしてしまふか、ピストルで自分の頭を射ち抜くかするんだと言ふ話を聞き、人間ってそんなものか知ら、今まで自爆なんて事を何の気なしに聞いて居たったけど、皆そんな風にして自爆してゆかれたのか。そんなにまで強い人間の本能をおさえて……と思ったら、暗い気持ちになるっていろゝと考へて居た時だったからなほ感[慨]深かった。(p.p.55-56)

          ******

 敗戦後の特攻隊員、戦死者に対する世間の評価は冷たいものだった。
 軍部にあやつられ、単純に命を捨てた愚かな若者と思われていた。思い出を口にするのもはばかられる世相となっていた。
 いまになっても、前後の見通しもつかないまま行動すると「特攻」の名を冠らされる事をもっても、いかに当時、軽侮の視線をなげられたかわかると思う。
 ご遺族はどんなにつらかったであろう。大切な肉親を無理に奪われ、その上、冷たい世論を受けなければならなかったのだ。
 私は人間としての彼等と親しくつきあった。たとえ軍人であろうと、人として豊かな情感を持っていて、それでも、それを圧殺して任務を全うした人々だったのに、その噂すら話すことも出来ない。(p.p.119-120)

         ******

 或る日「寺田さんが戦果をあげたのかどうか不明なのは残念でならない。命を捨てたのに」と遊びに来ていた青年に私がつぶやいた。
「だったら敵を大勢殺して死ねばよかったのですか」。彼に反論されて私は大変な衝撃を受け、頭をなぐられた様な思いだった。
 そうなのだ。戦果というのは相手を殺すことなのだ。人間である相手を。……
 それまで、私の頭の中は戦後三十年もすぎていても、戦争は机上の戦争と同じだったのかも知れなかった。

撃沈される船にのっているアメリカ兵も、親も子、恋人もいる人間であることに思い及ばぬ幼さというか、戦時中で、思考の止ってしまっていた人間だった。(p.135)


八牧美喜子『いのち ― 戦時下の一少女の日記』

Sunday, September 24, 2017

被災地タクシー運転手の幽霊体験

 今回の震災以後、岩手県や宮城県そして福島県でも、タクシーの運転手さんが同じような幽霊体験をしています。
道で手を挙げる人がいるので停車して載せ、行く先を聞いて走り出します。しばらくその目的地に向かって走るうちに運転手は気づきます。
「お客さん、あそこは今、瓦礫も片付いてませんし、行っても何もありませんよ」
場合によっては載せた直後、すぐに運転手が気づくこともあったようですが、「とにかく行ってくれ」というのが客の返事。仕方なく車を走らせ、目的地付近に着いて「このへんでいいですか」などと訊きつつ振り向くと、後部座席に人影がない、というのです。
 なかには後部座席が濡れていたとか、多少のバリエーションがありますが、同じような体験を相当多くのタクシー運転手さんがしているようです。


玄侑宗久『やがて死ぬけしき』


    *****

 石巻ではタクシーに幽霊を乗せた運転手の体験談が多く聞かれ、その話を収集した大学院生の論文が話題になったことがある。(p.175)

畑中章宏『21世紀の民俗学』



Monday, May 22, 2017

一心不亂

…原町市南町の東本願寺別院や浪江町幾世橋の大聖寺をしばしば訪問した[廣森達郎]中尉は、戦いのなかの死とはなにかを問い続け、悟りを得ようと努力に努力を重ねた。

[血書]
破邪絶忠
我、今、宿善の助クルニヨリ、己二受ケ難キ人身ヲ受ケタルノミアラズ、生死ノ中ノ景勝ナルベシ。
水ずくも燃ゆるも何をか悔いざらむ
君に捧げし命なりせば
[…]
吾人罪業深キ人間ナレバ之ガ中核ハ我執ニ依リ覆ワレアリ
サレド一度大悲願ニ接センカ我執ノ我ハ御民我トナリ本体ハ確然タリ
[…]
昭和十八年十月二十日 記 於別院 達郎
(注=この血書は、飛行学校所在の原町東本願寺別院の北上上人を尋ね、夜を徹して問答し、ある心境に達して、自らの指先を切って認めたものである。)(p.p.251-252)



廣森達郎 原町在住日記[昭和十八年]

十月三十一日
浪江ノ青田ノ家ニ至ル。大洋ノナガメハ各別ナリ。返シテハ寄セ、寄セテハ返ス浪、コノ現象ハ神代ヨリ続キナオ無限ニ続カン。ナンゾ瞬時ノ人生ニ迷ワン


また大聖寺にあてた手紙は次のとおり。
「…西のほうに向かって大きくうたってください。耳をすまして聞きます。私の忘れられない歌は次のものです。
 うさぎ追いし かの山 こぶな釣りしかの川 夢は今も めぐりて 忘れがたき故郷……。さようなら 廣森」(p.42)



[神中佐手記より]

…説明終わると、廣森中尉は全員を集めて話をした。
「いよいよ明朝、特攻だ。いつものようにオレについてきてほしい。次のことだけは約束しよう。こんど生まれ変わったら、そして、それがウジ虫であろうと、国を愛する心だけは失わないようにしよう」

それを聞いて私は呼吸が絶たれるような衝撃を受け、事実いてもたってもおられなくなった。私は足ばやに離れ、とめどもなく流れる感激の、否、悲しみの涙をどうすることもできなかった。・・・[廣森中尉出撃の]二十七日早朝、牛島軍司令官を案内して首里山上に立った。
・・薄明のあの短い時間を利用しての突撃である。三機、また三機、そして三機が次々に首里山上を過ぎていく。いままで眠っていたように遊弋していた敵艦が慌てて動き出した。が、もはや間に合わない。ハヤブサのように降下する飛行機は吸い込まれるように次々に艦艇に命中する・・牛島司令官は、つと振り向いて「中央へ電文の起案を」 ― そして頭を垂れて目をつぶった。(p.p.41-42)


『嗚呼 原町陸軍飛行場』

Monday, May 15, 2017

倶會一處(倶に一処に会ふ)

福島県相馬郡原町本町一丁目 
松永ノ皆様

・・・魚本の連中[※原町の料亭の常連]は昨日此の地を元気よく南に飛び去っていきました[※特攻出撃のこと]。小生達も今日か明日でせう。
[・・・]
小生始めて参上してより出発迄親身に勝る御愛情をいたゞき深く深く感謝致すとゝもにお言葉にあまえていろいろご無理をいった事を深く御詫び申上げます。
[・・・]
カタ餅[※相馬名物の凍み餅]有難う御座いました。飛行中たべておいしかった事、全部たべないで一つだけ大事に持って居りますよ、原町の臭いをかぐ為に。小生は戦死したならば、伊セに帰らず、第一番に思出多き原町を訪れる事でせう。その時は足が無いからとて、おっぽりださないでくださいよ。
それから美喜ちゃん、小生の好きな音盤、白鳥をかけて下さい。遠い此の地で耳をすまして聞いて居る事でせう。


六月五日
 
西部一八九三四部隊気付特別攻撃隊
振武隊国華隊
陸軍々曹 加藤俊二
同    井上 清  拝



 私は、白鳥とパリー祭が表裏の一枚の大切なレコードを取り出した。雑音の多い古いレコードは、確かにこの白鳥の曲を耳すませて聞いている人が、遠くにいる様に感じられてならなかった。

八牧美喜子『いのち ― 戦時下の一少女の日記』


映画「トテチータ・チキチータ」予告編  

あなたには、守る人がいますか?

Friday, May 12, 2017

一期一会  自分の死を語ろう 

小山少尉は原町出発のとき次のことを書き残した。

「恋しき原町……という二編返しの文句があったが、ほんとうに原町は一度きたら去りたくない。民情豊かなる相馬 ―。比島のはてに消ゆるとも、また南海の露と消ゆるとも、忘れ得ぬ思い出第二のふるさと。相馬原町の発展を祈る。」

二〇年二月六日、フィリピンの空戦で戦死した。岡山県の出身、二十一歳だった。

『嗚呼 原町陸軍飛行場』 

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映画「トテチータ・チキチータ」パイロット版
  
トテチータって何?

この世に思いを残して亡くなった人間が、龍になって、
自分の家族とか、愛する人を空の上から見守っている —

Sunday, May 7, 2017

以心 伝心 (心を以て心を伝ふ)

 原町飛行場で訓練に明け暮れた若いパイロットたちが息抜きに訪れるのは、本町一丁目にあった松永ミルクパーラー、同二丁目の料亭魚本、栄町一丁目の料亭柳谷などがあった。
 特攻に飛び立たなければならない運命を知りながら、飛行場の人々は休みの数時間を明るく振るまい、くったくのない話に華をさかせつつ彼等は町の人々との交際をもったのであった。(p.37)

 松永牛乳店に集まるものが、“ベコヤ編隊”と自称すれば、松浦家(柳屋)に集まるものは“本家編隊”と自称した。(p.44)

 松永ミルクパーラーの美喜子さん(当時十五歳)は、原町飛行場関係者のことを、当時の日記をもとにしながら『いのち  ―  戦時下の一少女の日記』にまとめている・・・

 
一月八日

淋しい。今夜はどうしたわけか淋しくて仕方がない。にぎやかに皆で話していながらも・・・・・・。

久木元さん齊藤さんの面影、かわるがわる浮かんでくる。あゝ誰か、・・・・・・久木元さんか、斉藤さんか、寺田さんか・・・・・・

決行なされたのぢゃないだろうか。


 二十年一月八日の日記だが、実はこの日、寺田伍長(当時一九歳)は[単機、敵輸送船に突入し]リンガエン湾に散っていた。一九年八月から九月まで、少年飛行兵一三期の人々は原町で過ごした。同期二七人のうち戦死二〇人。当時、松永牛乳店はほそぼそとながら牛乳やアイスクリームの店をひらいていた。喫茶店などない田舎町である。彼ら少年[飛行兵]たちの外出日は、店は満員で椅子のあくことがなかった。寺田さんのグループもよくこられ、縁側に回って茶を飲みながら弁当をひらいたりしたこともあった……。(p.38)

『嗚呼 原町陸軍飛行場』

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一月八日の命日に[自分の日記に]この文章が書かれていた事を、私自身、三十年後まで知らなかった。この『秋燕日記』を編集中にその事に気付き、私自身とても感動した。この日の日記を何と解したらいいのか、偶然と言うべきか、少女の心が感じとったあの方の惜別の思いだろうか。

八牧美喜子『いのち ― 戦時下の一少女の日記』

Thursday, April 6, 2017

ミミズの一生、集団ストーカーの輪廻

 ミミズだって死にたくない、幸せでいたいのです。「幸せという何かがあるのだ」と必死で探しまわる・・探して、探して、探しまわって、それでも見つからないたびに、さらに執着が、悔しさが、さらにさらに強烈となる。

 ミミズにとって、生きていて何が幸せなのでしょうか。・・腐りかけた葉っぱを食べて土のなかにいるだけ。目はないし、耳はない。見える、聞こえる、という感覚はまったくなし。ただ身体の感触があるだけです。

 自分がミミズになった気分になってください。まっくらな土のなかで、自分の前にある土を口から食べてお尻から出すだけの一生ですそれなのに、ミミズはそんな自分の命がすごく立派だと思っています。死にたくはない、長生きをしたいと願っています。・・鳥たちに食べられそうになると身体を必死でくねらせて、もがいて逃げようとするのです。・・でも、いったん土の上に出されたら終わり。それでも生命なのです。死にたくはないのです。だから、どこに生まれても同じバカなことをくり返すのです。

 そして、どこに生まれたとしても、その世界で「何かいいことはないかな」と探しまわって生きるのです。私も皆さんも人間の世界に生まれて、人間の世界には何かいいことはないのかと、探して生きてきたのです。・・何かあると思っていて、でもそれが何かはわからないまま。

 わたしたち人間の立場でみれば、ミミズという奴はなんてつまらない生命だろうか、と思うかもしれません。しかし私たちの命も、人間より上の次元、天界の神々などから見ると同じことです。なぜ人間という生き物はそんなに欲ばって、臭く汚い人生を送っているのかと、向こうはこちらをバカにしているのです。

 しかし人間が道徳を守って、こころに汚い思考がなくなって、明るい善の思考がきれいに回転するようになると・・神々が人間に興味を抱いたりする。そのときは身体が臭いことは気にしない。心清らかな人からは、神々も悪臭は感じないそうです。・・帝釈天は、「人間は悪臭のする生命だけど、こころ清らかな人の香りは天界をも貫いてとどくのだ」と言ったというのです。

アルボムッレ・スマナサーラ『死後はどうなるの?』

Thursday, March 9, 2017

幕末の集団ストーカーの死

9 芹沢鴨・剣と凶行の足跡

 ある時[新選組の]芹沢は、天狗党の所行を諫めようと目論んでいた常陸国川合村の農民を一夜、裸体にして縛った後、首を刎ねたという。

 万延二年(一八六一)に[は] 下総佐原村で・・同志六名と村に入り、翌日、村役人を宿舎に呼び出して、一千両の活動資金を用意するよう求めた。
[満足する回答を待ちきれない浪士たちは]香取神宮へ参詣に出向き、社人らに暴行・・名主宅に押し寄せて家屋を破壊、通行人の頭を見境なく鉄扇で叩き付け、犬を切り殺し、通りがかった魚屋の天秤棒を取り上げ、容赦なく叩き付けたと『常野集』は伝える。


当時を知る故老は回想する。

・・佐原の町の内は往来がきれてしまって、人っこ一人通らない。・・実に暗黒世界で、地頭からは政府へ願っても今に行く、今に行くというて、一向にはかどらない。いわゆる無政府の有様であった。(一九〇七「五十年前の佐原」朝野泰蔵)
・・浪人ども短筒様の物[註:ピストル]を銘々所持候様子にあい見え、なかなかもって乱暴取り鎮め難く・・・(『常野集』)
・・芹沢という人は、まったく怖い人だったそうで、人間を斬ることなど、まるでこちとらが、芋か大根でもきる程にも思わなかった・・。(一九三〇『史外史譚剣豪秘話』)

 (芹沢は)酒を飲めば、刀を抜いて、女を追い廻す癖があって、ある日、あんまりうるさいので、酔いつぶれて寝転ぶうちに、舞妓どもが大勢して、打ち紐で大小をガンジガラメに縛り、抜けないようにして、
「こうしといたら怖いことおヘン」
と転ばしたりして居るうちに、芹沢は酔いが醒めぬまま、その刀を提げて帰る途中、同志の誰かに[粛清のため]殺されたと、聞いて角屋は赤飯炊いて大喜び、さっそく角屋から、(大阪新町の)吉田屋へ、早飛脚が立ったということを聞いて居ました。(一九三三「新町情話」)


23 新選組に斬られた人びと  公務よりも死闘を

(記録上に確認できる二十一件の殺害事件のうち)公務と判断できる事件での死亡案件は半数にも満たない。
その一方で、私怨や私闘に類する殺害者は半数以上もあった。・・・部外者への暗殺行為は決して多くない。
新選組が刃を向けたのは、何よりも内部に対してだった。(p.159)


12 斎藤一かく語りき

斎藤一の述懐を紹介したい。
・・よく昔から人を斬った者は、その亡霊に悩まされて、夜もろくろく睡眠がとれぬとか、悪運強く畳の上で往生したにしても、死に際がわるいというが、余にはそのようなことはない。
おそらく死ぬときもそうと思う。何故って余は世間でいうように、仮に多くの人を斬ったにしても、戦争で敵を敗ったも同然、私の怨恨でカスリ疵一つ、他に負わした覚えはない。これだけは威張って、大きな声で言っておいてもよいと信じている。(p.79)


伊東成郎『新選組と刀』

  今から2千6百年前、インドのある将軍が釈尊に訊ねて曰く「自分は国のために命をかけて戦ってきたのだから死後は、きっと天界へ行けると思うがいかがか」。
釈尊は「私に言わせるな」と口を閉ざされたが、再三問われ、ようやく答えて曰く「汝は特別な地獄へ赴くだろう」。
人殺しに加わったのだから死後の責苦は免れないのだろうが、「特別な」地獄というのは、ただの地獄とどう違うのだろうか。
 軍人同士の戦いは敵もまた武器を持って自分を殺しに来るのであり、お互い正々堂々、対等な戦いである。
何よりも軍人は同胞を守るため勇敢にも自らの命をなげうつ覚悟なのだから、死後に赴くのは、まさしく阿修羅のような神々と紙一重の修羅道のようなところなのであろう。また日頃行いの正しい人が敵を殺すことなく、やられたならばそれほど悪くはないところに時を経ず生まれかわることもできるだろう。世界中の人々が目を見張った戦後日本人社会の奇跡的な復興と目覚ましい発展は、この生まれ変わりの人たちが支えてきたのかもしれない。


 一方、釈尊は「手向かうことなく罪咎のない人に害を加えるならば・・身やぶれてのち地獄に生まれる(『ダンマパッダ』)」と無抵抗な相手を一方的に害する場合は「ただの地獄」に堕ちるとも教示されている。
 つまり自己犠牲を厭わず修羅の如く死地に赴く武士や軍人とは正反対に、己の性欲、金欲、権力欲のため罪なき人を、たとえ同胞でも殺す犯罪者、あるいは己さえよければ同胞がいくら殺されようがどうでもいいと、被害者を見殺しにすることで犯罪者に媚び諂う卑怯者の死後は、やはりただの悲惨な地獄というわけだ。
 上掲の斎藤一は自分がそのような卑怯者ではなく、稀有な例外だったことを殊更に強調しているが、これは新選組の多くは「ただの地獄」に堕ちる、ただの反社会性人格障害者だったことを逆説的に物語っている。


 さて21世紀の現代、日本国内で無抵抗の罪なき人々に対し陰に陽に横暴を極め、一人を相手に大勢で協力して拷問し自殺させたり、人為的な災害、事故、病気などで殺す卑怯者といえば、言うまでもなく集団ストーカーどもであるが、中でも最も臆病で卑劣な集団の代名詞といえば、俗に広域指定暴力団「桜田組」と揶揄されている警察犯罪者の集団だろう。もっとも正統な暴力団構成員なら堅気には手を出さないし己の為した行為について「そんなことはしていない」などと嘘を吐いて否定するような卑怯な真似はしないだろうから、警察犯罪者を暴力団に譬えるのは、暴力団の方々に失礼ではある。しかし暴力団について世間一般の持つ悪辣なイメージは実は警察犯罪者がやっていることだったのだというわけで、ご勘弁願いたい。
 参考までに警察犯罪者らが標的にしているのはどういう対象が多いか見てみよう。
 貴方をアパートの一室に連れて行った、その担当者が、最初に貴方を強姦した犯人です。
貴方を強姦しておいて、さらにその捜査を自分で担当しているのです。公安が催眠強姦をする目的は 、貴方を利用する為です。就寝中の強姦被害から、公安の協力者になり活動に参加するようになった女性は、大勢の男と肉体関係を結ばされた後、口封じの為、殺されてしまった人が少なくありません。
貴方に普通の常識と思考力があれば、やがて「強姦犯人は、この警察官たちだ」という事に気付きます。 
その時が危険です。さらに、協力者として公安の活動に参加した場合、公安の色々な秘密を知る事になります。行く度に絶対に口外しない約束をさせられますが、その場合、貴方は秘密を漏らさないか、常に公安に監視されます。『●ストーカーの正体は警視庁公安部● 』http://cointelpromkultra.blog.fc2.com/blog-entry-52.html) 
 殺されたのはすべて女性、これまでに少なくとも22人が殺害された。『っ警視庁公安部上尾分室』http://uni.2ch.net/test/read.cgi/police/1287338396/

・・・アウトローたちは「自分たちのしていることは悪い」と自覚している。だが最近の警察はやくざもびっくりするようなことをしていながら「正義」をふりかざしている。

盗聴や監視は庶民に対して行なわれるだけではない。シャブをやっているチンピラの逮捕よりも警察官僚が大事にしているのは、「身内の情報」である。

  敵対派閥の動向を知るためには、盗聴が手っ取り早い。
一九九九年の盗聴法の成立にはそうした背景もあった。
(p.93) 『警察官の犯罪白書』 宮崎学


[在職中に、組織の不正を改善するよう何度も具申してきた]私は3回もあらぬ疑いで「特別視察対象者」に指定されました。これになると、3ヶ月にわたり、監察から尾行や張り込みなどの監視を受けます。精神的に耐えられず、辞職したり、自殺したりする警察官もいます。
 かくいう私も、2回目に「特別視察対象者」に指定されたとき、監察から長時間の取調べを受け、血尿が出て、精神的にも体力的にも限界となりました。妻と心中しようとしましたが、彼女が「悪い警察の思うツボ」と言うので、思いとどまったんです。(p.p.86-87)
飛松五男『なぜ警察官の犯罪がなくならないのか』


 新選組と桜田組。歴史は繰り返すというが、どちらもにしても、まもなく滅びゆく権力者にすがりつき、私利私欲で人殺しをやるただの犯罪者がほとんど。
畢竟「死に際が悪そうな」点はなんともおどろくほどに酷似している。もしや、すでに殺された犠牲者の亡霊に夜な夜なうなされている警察犯罪者も実は多いのではなかろうか。

Saturday, January 21, 2017

殺人など不幸を助長する仕事に手を染めて

加害者による内部告発(殺人)

2ちゃんねる掲示板に「自殺を促す仕事に関与した私の懺悔」という加害者と思われる書き込みがありました・・・

「情報収集の結果・・・・我々工作員はこの2つの情報から以下の工作を行うことにしました。・・・・ターゲットは、その後ビルの屋上から飛び降り自ら命を絶ったそうです。運悪く最後にターゲットに不幸を働きかけたのはこの私だったのです。この人を殺したという罪の意識にさいなまれここ(2ちゃねんる)へ書き込みました。多くの人達、特に若者達にこの事実を記憶の片隅にでも置いて頂いて、 殺人などの不幸を助長する仕事に手を染める悲劇を未然に防ぐ事だと 気付いたので生硬ではありますがこの文章を書きました。 この文章が官僚の目に留まり国に働きかけてこのような悲惨極まりない仕事を日本から追放してくれることを心から願っています。」

安倍幾多郎 『集団ストーカー認知・撲滅』


これを読んだ集団ストーカー犯罪者諸君も人殺しを懺悔して贖おう。

「あなたは人を殺したのですか」「はい」

 米海兵隊員としてベトナム戦争に従軍し、その体験を語り続けたアレン・ネルソンさんという方がいました。
・・ベトナムで大勢の人を殺したネルソンさんは除隊後、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しみました。悪夢にうなされ、一時はホームレスになったそうです。
 あるとき、同じ高校出身で小学校の教諭になった女性に出会い、戦場での体験を話してほしい、と頼まれました。ネルソンさんは小学校に出向き、自分の体験を語りました。
子供の一人がネルソンさんに、「ネルソンさん、あなたは人を殺したのですか」と聞きました。ネルソンさんは「はい」と答え、涙をこぼしました。子どもたちは「かわいそうなネルソンさん」と言い、ネルソンさんと一緒に、抱き合って涙を流したそうです。
・・このとき、子どもたちが一緒に涙を流しながら抱きしめてくれたことで、ネルソンさんの気持ちが救われたといいます。



中下大樹『悲しむ力』

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【参考】加害者による内部告発(殺人)

2ちゃんねる掲示板に「自殺を促す仕事に関与した私の懺悔」という加害者と思われる書き込みがありました・・・

「情報収集の結果・・・・我々工作員はこの2つの情報から以下の工作を行うことにしました。・・・・ターゲットは、その後ビルの屋上から飛び降り自ら命を絶ったそうです。運悪く最後にターゲットに不幸を働きかけたのはこの私だったのです。この人を殺したという罪の意識にさいなまれここ(2ちゃねんる)へ書き込みました。多くの人達、特に若者達にこの事実を記憶の片隅にでも置いて頂いて、 殺人などの不幸を助長する仕事に手を染める悲劇を未然に防ぐ事だと 気付いたので生硬ではありますがこの文章を書きました。 この文章が官僚の目に留まり国に働きかけてこのような悲惨極まりない仕事を日本から追放してくれることを心から願っています。」(p.p.58-59)

安倍幾多郎 『集団ストーカー認知・撲滅』

集団ストーカ諸君人殺

Monday, January 16, 2017

苦悩に満ちた顔で亡くなる

40代Tさんという男性患者さんのことも、忘れられません。がんが全身に転移し、食事も自力では食べられなくなり、いよいよ最期のときが近づいていました。・・体調が急変し、ゆっくりと絞り出すような声で私にこう言ったのです。

「・・今まで好き勝手に生きてきたツケが回ってきたんだ。俺の人生はいったい何だったんだ?・・」

・・Tさんが今までどんな人生を歩んできたのか詳しいことは知りませんが、なにかを悔いていることだけは伝わってきました。その日の深夜、Tさんは目をカッと見開いたまま亡くなりました。その顔は苦悩に満ちたTさんの生涯を物語るような険しいものでした。

中下大樹『悲しむ力』