Saturday, December 24, 2011

『死後はどうなるの?』どうぞ良い死後を!


 人が嘘をついたとしたら、三つのアパーヤ[=地獄]のどこに行くのでしょうか。それは嘘の強弱によります。回数が少なければ、そんなに大罪になりません。それよりひどいのは、罪を正当化することです。
 これはものすごく危険です。悪いことをしても、「それはしょうがないよ。やらないといけない状況だったんだから」といって正当化してはいけないのです。罪を正当化すれば、罪が重くなります。小さな罪が大罪にまで膨らむのです。・・・
 
 罪の正当化と並んで、罪の意識がないことも危ないのです。・・不正を続けていると罪の意識がなくなるでしょう。五,六年続けると、あたりまえのことになってしまいます。・・だからといって罪がないとはいえないのです。・・知恵の開発に欠かせない脳の機能を破壊しているのですから。(p.190)
   Aスマナサーラ『死後はどうなるの?』

 要約すると、もし悪いことしたまま死んだら、

①罪や、ついた嘘などの強弱

②その回数

③それを正当化するか

④罪の意識があるか、ないか

・・などの条件によって次に生まれるところが自動的に決まる。


 またほとんどの者がそうだろうが、すでに罪を犯している者が

良い所に生まれ変わりたいなら、

①罪をくり返さない

②懺悔する

③犯した罪よりたくさんの良いことをする

・・ことで罪が弱くなる

     
  さて以前、読んだ司法試験合格のための本に「試験に受からなかったら死刑になると思って勉強せよ」という言葉があった。司法試験はそれくらい自分を厳しく律せねば受からぬ難関であるのはいうまでもないが、しかし実は哲人パスカルが言ったとおり「人は皆、死刑を宣告されている」のであり必ず死ぬものだ。ただ本当にそのような場に遭遇するまでは実感がないため、死に関して、己に都合の悪い事実はすべて無視し、いい加減な見解しか持ちあわせていないのが平凡な人間の常である。「死んだら意識も何もないから心配しなくてオッケーだ」とか、死後の意識というものがあっても「神や仏が生前の悪行を全部チャラにしてくれるからダイジョーブだあ」、等などである。

 それでも世の中には、死という関門の厳しさに前もって気付き、最悪の場合も考慮して心の備えをする者も少なからずいる。すなわち上記スマナサーラ長老著『死後はどうなるの?』で説かれる如く、地獄があったら困るような生き方は避ける、道徳的な人間である。

 さて冒頭の司法試験の喩えで言えば、「試験なんてものは本当は存在しないんだよ、空(くう)だ」とか、「神や仏に祈ってりゃ努力なんてしなくても司法試験だって皆、合格できるさ」、と教える者の言うことを聞くのだろうか?それとも昔から難しいといわれている関門なのだから「最善の努力しなければ善い結果は得られませんよ」と説く者の言うことを聞くのだろうか?

このブログの読者諸兄はどのタイプだろうか?


善い領域(=天)におもむく人々は少ない。
悪い領域(=地獄など)におもむく人々は多い。
このことわりをあるがままに知ったならば、
安らぎ(ニルヴァーナ) に専念するものとなるであろう。
 『感興のことば=ウダーナヴァルガ』26.8

ジェットコースターみたいな死後

     徳の高い女がいたが、ある不良男がそれを妬み、彼女の徳を剥ぎ取ってやろうと近づく。その不良と淫行をした女は「そのようなことはまったく知りません」と夫に噓をついた。その結果、死んだ後、前世で積んだ善業のおかげで彼女は昼は天上の楽を味わい、しかし夜は悪業に牽かれて犬に骨だけにされるまで朝まで食いちぎられ、池に投げ込まれを繰り返す。
      生前に積んだ業が全部で百として、善悪がそれぞれ五十点ずつの場合、プラスマイナスゼロの平凡な生活というふうに差し引いてはもらえない。善業による果報は楽果として悪業は苦果としてしっかり味あわなくてはならない。(p.186)

藤本晃『死者たちの物語 -餓鬼事経の和訳と解説-』

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SuttaNipata
666 けだし何者の業も滅びることはない。それは必ず戻ってきて、(業をつくった)主がそれを受ける。愚者は罪を犯して来世にあっては、その身に苦しみを受ける。
 'For one's deeds are not lost, they will surely come (back to you), (their) master will meet with them, the fool who commits sin will feel the pain in himself in the other world. (666)
六六六        任何諸業無滅者        業主必來承受得
                 自造罪惡愚鈍者        此世他世自受苦  

Wednesday, August 3, 2011

目を覚まそう

仏教の無の観念は決して単純ではない。
それは無をも否定する、有無を超越した無といわれる。
凡人はこれを理解せずに、無といえば有に対する無を考える。
だから、自己の死を、世界から自己の姿だけが脱落した光景に比して恐怖する。そのような光景は人がいまだ生きている限りにおいて存在し得るものにすぎない。有無をこえた無、ないし死は、眠りにたとえられるだろう・・・。

知識人は死後の世界を有ととらえることを過ちを犯すことと考えてしまう。しかし世間は虚仮である・・・われわれは生きている限り虚仮のなかにいる。なぜ今さら過ちを犯すことを恐れる必要があろう。ニーチェもいっている、なぜむしろ虚妄への意志がないのであるか、と。
(p.p.131-132)

「三界と六道」 定方 晟(あきら) 『死とはなにか』所収


さてここで本ブログ第一回目の投稿を振り返ってみたい。


“臨死体験は当初、逸話を集める形で始まったが、いろんな調査を試みた結果、体験の存在自体は疑いようがなく科学的研究として認められるようになった。最近では医学・心理学関係の純アカデミカルな学術研究論文雑誌にも臨死体験の論文がかなり出るようになってきた。実体験者は「それは夢や記憶の想起ではなく、外界に確然と存在したものを認識したものである」と言っている (立花隆)。”

つまり、死後の意識は寝ぼけている状態で見た世界みたいなものなのだが、実は今、この瞬間、我々が現実と想っている「現実」もまた死後の意識と同じくらい寝ぼけながら見ているようなものというわけだ。然れば、今、現実だと想っている「現実」が夢とは思えない多くの人には、死後の世界も今この瞬間に見ている「現実」と同じくらい現実に思えてしまうということだ。

そして今、多くの者が現実だと想っている「現実」は実は夢をみてるようなものなのだと、完全に覚めた目で見ることができる人のみが、「死後も無である」と胸を張って言えるわけだ。ブッダとは「目覚めた存在(覚者)」という意味なのも頷ける。


露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢

(豊臣秀吉)


色は匂へど 散りぬるを
我が世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず



(弘法大師)


<おまけ>

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イスラム教スーフィズムの寓話:


昔、ひとりのスーフィーの修道者がいました。

彼は熱心に修行にはげみ、人からは聖者と崇められていました。


そんな彼の耳元で、神が囁きました。

「明日になったら世界中の水に、悪魔が毒を入れてしまう[筆者註:現代なら、差し詰めHAARPなどによるマインドコントロール電磁波か]。その水を飲んだ者はたちまちにして狂ってしまうだろう。だから十分に用心しなさい」


それを聞いた男は驚いて、一日がかりで水を汲み上げ、たくさんの水を蓄えることにしました。



そして翌朝、本当にそのことが起きていたのです。

村中の人が毒入りの水を飲んだことで、みな狂ってしまいました。


しかし彼らは自分が狂ったことに気が付いていません。

みんなが同じように狂っていたからです。


しかし、一人だけおかしな男がいました。

あのスーフィーの修道者です。


村人たちは彼を警戒しました。

聖者だとばかり思っていた男が、どうやら気がふれてしまったようなのです。

村人から見ると、その男一人が狂って見えました。



しかしスーフィーだけは、いったい何が起きたのかその全貌を知っていました。

だから村人たちにもその真実を聞かせようと努力したのですが、誰も本気にしません。


「あいつは何を言っているのか。俺たちが夢を見ているって?俺たちが狂っているって?そういうあいつこそがおかしいくせに」


村人たちは、悪魔の水を飲む前のことをすっかり忘れてしまっていました。

彼らにはスーフィーの言うことがどうにも理解できませんでした。

彼は理解を超えていたのです。



そのうち村人たちは、彼を捉えて牢屋に幽閉しようと計画し始めました。

そして一行が彼の家を取り囲みました。


それを見たスーフィーは、もはやこれまでとばかりに村の水を飲むことにしました。


そして正常(?)に戻ったのです。


村人たちは、そんな彼を見て大喜びしました。

やっとスーフィーが正気に戻ったからです。

しかし実際には、彼も一緒に狂ってしまったのですが、とにもかくにも彼は社会の仲間入りを果たすことができました。


めでたし、めでたし。


・・・・・・・


みんなが夢を見ている社会(筆者註:Mass Mind Controlled Society)で生きていれば、自分が夢を見ていることに気づくことはありません。

それが、僕たちが置かれている状況なのです。

(ブログ"いまここ"より転記) スーフィズムの寓話


Sunday, July 24, 2011

絶望のないところに救いもあるものか

(やりたい放題に多くのものを苦しめておきながら、

阿弥陀佛に会ってみたいと、形だけの出家をした虫のよい

悪党を、眼光鋭い老僧が一喝する)

「ははは、いい気なものよ。・・・なんじはおのれ

一人の求めに急なあまり、これまで一度として、

うしろをふりかえってみたことなどあるまい」

「うしろ?」

「その手で殺し、大けがをさせ、泣きをみせた人や

けだもの、幾十幾百の怨恨と悲嘆を、錘さながら曳きずって

ゆくかぎり、浄土は遠いわ。してのけた悪業をしんそこ懺悔し、

おのれ自身の恐ろしさ、むごさ、恥ずかしさ、救われがたさに、

絶望しきったときはじめて、信仰はなんじの心に生まれるのじゃ。

絶望のないところに、救いもあるものか」


(阿弥陀佛に逢ってみたいと出家した虫のよい

悪党・源太夫へ、眼光鋭い老僧の一喝は続く)

「・・・求めるからには苦しむがよい。怖れがなく悔いもなく、

悶えもしない心で、 何を求めたとて与えられはせぬわ」

「そうだ。その通りだ」源太夫はうめいた。

「おれはとんでもない外道だ。悪鬼だった。往生をのぞむなど、

考えてみれば虫がよすぎた。

浄土どころかこの先、行く手に待ちうけているのは、

まっ暗な地獄でしかあるまい。・・・おそろしい。

行きたくないが、してのけた悪事を思えば、罰は当然かもしれぬ」

  土をかきむしって源太夫はむせび泣いた。老僧の一喝は、

強情者の我意をうちくだいた。

~「白い蓮」 杉本苑子『今昔物語ふぁんたじあ』所収

うつせみのはかなき世とは知りながら
蓮(はちす)をねがふ人は稀なり
                             藤原公実

さてこの源太夫がその後、救われたのかどうかは是非小説を
読んでいただきたい。



ところで集団ストーキング犯罪の原型、ギャングストーキングの

本家本場アメリカでは、信じられないかもしれないが、

国民のほとんどが集団マインドコントロールにかかり、

「危険人物を懲らしめるため」などという

権力犯罪者に都合の良い陳腐な妄想で洗脳されて集団発狂し、

毎日毎夜、老いも若きもギャングストーキングという

変態犯罪に夢中になっている。

正式名称をCOINTELPROという、この集団ストーキングの原型を

考案したFBIは各国の警察組織にもその手法を伝授しているとのことで

集団ストーキングという犯罪自体はすでに多くの国で見られるが

本家アメリカのギャングストーキングの特徴としては、NPOが公表した全米

被害総数40万人という数もさることながら、加害者になる人間が

更にその数十倍は下らず、被害者数よりも加害者数が圧倒的に多い点が際立つ。

すなわち世界一病んだ、文句なしの集団ストーカー天国なのだ。
 

証拠が取りにくい陰険な方法で被害者を拷問しては笑いものにし

自殺させておきながら「すべては偶然」だと卑劣な大ウソを吐いて

責任を逃れる。それをゲームのように楽しみ

すでに大衆の娯楽にさえなっているほどだ。
 
自分さえよければ、或いは法で裁かれさえしなければ、

何をやってもいい、それどころか、うまく世間を騙せるのが

有能さの証しとさえ考えるのが平均的アメリカ人の価値観にもなっている。

ともあれ善人も悪人も、皆最後には死ぬわけだが

このギャングストーカーになる者達のように、一生改心もできず

人類史に恥と汚点を残しながら死んでいき、あとは地獄など

行きたくはないところに、為す術もなく赴くだけの、

心の弱い生き方・死に方を仮に「さいこぱす型」人生と呼ぶとしよう。

(ネーミングはどうでもよいので皆さんの好きな名前をどうぞ)

物質に譬えれば放射性廃棄物みたいなもので生態系すべてから

忌み嫌われ、拒まれ、その半減期は恐ろしく長く、地球という

この惑星が爆発消滅する日まで孤独に留め置かれると考えられる。
 

一方で集団ストーカーのような人の道に外れた

変態犯罪をやるのは意地でも拒み、まっとうな生き方を貫き、

再び人間界や天界に生まれる可能性の高い生き方を

桜の花が散っても時が来れば再び木に花をつけるのになぞらえ

「さくらさく型」人生と名づけるとしてみよう。

散った桜の花びらの物質が生態系を循環して再び花として咲くように

生まれ変わるから「さくらさく」だ。


繰り返すがネーミングはあまり重要ではない。どうせ

どんな卑劣な悪人でも、前者(サイコパス型)に自分の嫌いな人間像を

重ね合わせ、後者の善人像に自己のイメージを重ねる、そして

もしそれを他人から否定されようものなら憤慨する・・

長年、多くの集団ストーカー実行犯を観察してきたうえで

の推測だが、違うだろうか?
 

話しを元に戻して、この生き方の違いこそが、

ギャングストーカー犯罪に協力する加害者の推定人口比率が世界一高いアメリカと、

一方で加害者にはならず世の巨悪を一身に

受けて自殺する者の数が異常にめだつ日本との対照に

反映されているのではないだろうか。

ちなみに日本人や日本人と同じような顔をしているシナ人や朝鮮人でも、

あるいは反対に似ても似つかぬ顔した人種であっても、

どちらの型になびくかは、モラルが高いか低いかで決まるのであって、

国籍や民族が重要なのではないことは、このシリーズ「集団ストーカーの死」

の熱心な読者諸兄は、もうおわかりだろう。
 

さて前者(さいこぱす型)のように罪なき人を苦しめ殺し

責任も取らず、「自分は関係ない」と卑劣なウソを吐いたまま死ぬ

卑しい生き方・死に方では死後、地獄など悲惨なところに赴く

確率が高いことは聖書でも仏典でもコーランでも明示されていて、

あるいは六道輪廻で説くなら、せいぜいよくて餓鬼道の亡者か

畜生に生まれ変わるくらいしかないといったとこだろう。

人間に輪廻転生し復活するなんぞ100億年早いわ、というわけだ。



よって人類が滅ぶまでに「人間の生(つまり人生)」を味わえるのは
 
実質的に今回かぎりの可能性が高い。


だからよく「人生一度きり」などと言ってる人には、

気をつけたほうがいい(笑)

それに対し、たとえばウソは言わないよう努めている者は、
 
たったそれだけの努力でも死後は天界に赴くことができると
 

釈尊は説かれた。ならば、モラルの高い人間が、天界より下位の
 
人間界に転生することはもっと容易いはずだ。


さてここから一気に話しを個々人の一生から人類全体へと移してみよう。
 
畢竟、己の欲望のために他人を苦しめ、人を騙しながら生きる、


 
集団ストーカー犯罪者のような生き方が適者生存において勝るなら、
 
自然淘汰により人類はとっくに犯罪者とウソつきだけになっているはずだが、
 
そんな世は一度も現出していないのはなぜだろう?

実際、ヒトラーやシュタージ、スターリンに毛沢東、ポルポトなどに洗脳され
 
凶悪卑劣の限りを尽くした無知な大衆の世はいずれも長くはつづかなかった。


現在のアメリカの「ギャングストーカー天国」もまたしかりであろう。

いくら権力犯罪者らが集団でワル知恵しぼり組織的な謀略を永らえようとしても、

或いは一定期、大衆の大半が集団ストーカー犯罪者という卑劣で卑怯な犯罪集団と化し、

その道徳レベルが堕ちるところまで堕ちても、

不可思議なことに世代が変われば、ゆり戻しが起こり、

リバウンドするが如くいつのまにか全体の道徳性を回復している。

人類史とはこのダイナミズムの繰り返しのようでもある。

どうしてこのようなサイクルがあるのかを熟考するに、

やはり人間にふさわしい心をしたものだけが人間として生まれてくる

という因果応報の規則に基づいているためではなかろうか。

つまり集団ストーカーたちのように人の道に外れたことをやって

富や権力、名声を得たところで、彼らの人間としての生は、

ほとんど「これ一回ぽっきり」のようなもの。淘汰され、後(来世)が続かない。

ところで、この人間界からほとんど永久に近い「退場」(つまり淘汰)を強いられる

連中と比べると、これから人間として生まれてくる命は少なくとも

彼ら集団ストーカーよりは道徳性はマシだ。しかし中には成長するにつれ、

やがて心が穢れ、集団ストーカー犯罪者になる大衆も出てくる。

こうして善人と悪人の数のバランスは周期的に循環しているのではなかろうか




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善い領域(=天)におもむく人々は少ない
悪い領域(=地獄など)におもむく人々は多い。
このことわりをあるがままに知ったならば、安らぎ(ニルヴァーナ)
に専念するものとなるであろう。
『感興のことば=ウダーナヴァルガ』26.8

真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。
これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。
Dhammapada224

「すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、
彼らの受くべき報いである」
(黙示録21:8)
 
 手むかうことなく罪咎の無い人々に害を加えるならば、次に挙げる十種の場合のうちのどれかに速やかに出会うであろう、___
(1)激しい痛み、(2)老衰、(3)身体の傷害、(4)重い病い、(5)乱心、(6)国王からの災い、(7)恐ろしい告げ口、(8)親族の滅亡と、(9)財産の損失と、(10)その人の家を火が焼く。この愚かな者は、身やぶれてのちに、地獄に生まれる
Dhammapada 137140

 
  嘘を言う人は地獄に堕ちる。また実際にしておきながら
「わたしはしませんでした」という人も同じ。両者とも行為の卑劣な人であり、
死後にはあの世で同じような(地獄に堕ちる)運命を受ける。
Sutta Nipata 661

「死人に口あり」

  (ハロウィーンの)仮装の正体は、あの世から戻ってくる亡霊たちの姿です。
・・・「死人に口なし」という常識が表通りを独占していても・・仏壇の前に線香一本、あるいは墓の前に蝋燭一本立てれば、たちまち死者との語りが可能になる。
・・・沖縄ではユタのところに四十九日前に必ず行くという風習を守っている家が結構あります・・たいていの死者はお前たちも無事に暮らしなさい、などと気遣い・・平和に収めるのですが、なかにはとんでもないことを言い出してしまう死者もいます。
・・「死者の祟り」が怖いのは、単なる恐怖心だけでなく、その背後には、幸運にも生き延びた者だけが幸せだと己惚れるな、上手に立ち回って成功した人間だけがこの世を支配できるわけではない、私たちはつねに思いをとげず死んだ人たちの声に謙虚に耳を傾けねばならない、とする根強い倫理観が潜んでいた(p.p.130-164)

   (池上良正 『異界談義』 国立歴史民族博物館編) 

死んだ人たちの声に謙虚に耳を傾けてみよう


涙そうそう
作詞 : 森山良子 作曲 : BEGIN
古いアルバムめくり
ありがとうってつぶやいた
いつもいつも胸の中
励ましてくれる人よ
晴れ渡る日も 雨の日も
浮かぶあの笑顔
想い出遠くあせても
おもかげ探して
よみがえる日は 涙そうそう
一番星に祈る
それが私のくせになり
夕暮れに見上げる空
心いっぱいあなた探す
悲しみにも 喜びにも
おもうあの笑顔
あなたの場所から私が
見えたら きっといつか
会えると信じ 生きてゆく
晴れ渡る日も 雨の日も
浮かぶあの笑顔
想い出遠くあせても
さみしくて 恋しくて
君への想い 涙そうそう
会いたくて 会いたくて
君への想い 涙そうそう

中文( 淚光閃閃 )
翻著古老的相片簿 對著總是 在心中鼓勵著我的人 囁囁著謝謝兩個字
晴空翊爽也好 大雨滂沱也罷 那時時刻刻浮現的笑容 即使回憶已遠離褪色
我依然追尋絲絲影跡 當他甦醒時總讓我 淚光閃閃
對著第一顆升起的星星祈禱 已經變成我的習慣
在黃昏時仰望的天空裡 滿心尋找你的蹤跡
悲傷落淚也好 歡喜雀躍也罷 你的笑容總會浮上心頭
我相信從你所在的地方看得到我
也相信我們總有重逢的一天而活著
晴空翊爽也好 大雨滂沱也罷 那時時刻刻浮現的笑容 即使回憶已遠離褪色
如此孤單 如此眷戀 對你的思念讓我淚光閃閃
想見你一面 想見你一面 對你的思念讓我 淚光閃閃

English Translation
I whisper “thank you”, as I leaf through this old photograph album,
to one who always cheered me on, within my heart
And should the memories of that smile I think of, *1
come rain or shine, fade away into the distance
They return in the days I search for a glimpse of your face, a stream of tears
Almost a habit now, I wish upon the very first star *2
Looking within the evening skies for you with all my heart
The memories of that smile I think of, in sorrow or joy
And if you can see me, from where you are
I’ll live on, believing that someday we’ll meet again
And should the memories of that smile I think of,
come rain or shine, fade away into the distance
In loneliness and yearning – my feelings for you, a stream of tears
If only we could meet, if only we could meet – my feelings for you, a stream of tears

業で説明つかない「非業の死」

    よく「非業の死」という言葉が使われます・・一昔前の人たちにとって、「これは業(ごう)だったんだ、業によって亡くなったんだ」ということは、ひとつの死に対する説明の仕方ではありました。そして、そういう当然の「業」によっても説明できない死というものが、非業、つまり業でも説明のつかない死、とされたのです。
   (池上良正 『異界談義』 国立歴史民族博物館編) 

   自然に起こる病気や事故に見せかけ殺害するのは無論のことだが、集団ストーカーによるガスライティング犯罪やハイテク凶器による拷問に遭わなければ自殺など考えもしなかった者が自殺したり、故意の感染やストレスにより病死したり、被害者が集団ストーカー被害に耐え切れなくなり死刑になるのを承知で犯罪を起こして命を落としたりすれば、それは集団ストーカー犯罪者らによる紛れもない「人殺し」であることを、関与している者たちは全員自覚しておかなければならない
資料映像:Monarch Project Torturing US Citizens Feds Radiating Americans 
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  人殺し やらせた人も 人殺し 
   あなたはこれまで 何人殺した? 

Wednesday, July 20, 2011

怨念を物理エネルギーに換算したら?

玄侑宗久: 早稲田で物理学をやっていた友達と一緒に夜中まで計算したんですけれども、基本にあるのは、「この宇宙の中のエネルギーの総量は一定だ」というアインシュタインの言葉なんです。たとえば人が亡くなった瞬間に体重が何クラムか減るというんですね。
瀬戸内寂聴:地球の総量のエネルギーの中には、生きている人間のエネルギーも入っているわけですか。E=mc^2という式なんですが。
玄侑:入っているんです。アインシュタインによれば、質量というのもエネルギーの一種だっていうんです。
瀬戸内: 死んだら、その人の分が減るというわけですか
玄侑:亡くなっても遺体はあるわけですが、遺体になった瞬間に体の重さ­が何グラムか減るという測定を、アメリカの何軒かの病院でしてい­るらしいんです...最高四十グラム減ったという報告があったんで­すが、一グラム減るだけでもそこに大変なエネルギーが生まれるん­です...たとえば二十五メートルプールの水をそのエネルギーで沸­騰させるとしたら...五百二十九杯分を瞬時に沸騰させられる・・・例えば光って­みたいと思った場合ですね、東京ドームの広さを昼間の明るさに照­らそうとしますと、昼夜ぶっ通しで十八日間大丈夫なんですね。あ­るいは、私は一気に光ってみたいという場合には太陽の四百三十二­倍の明るさです...たとえば運動エネルギーにして富士山を持ち上­げてみたいと思った場合、...富士山が十七ミリ持ち上がる。人が亡くなった時に一グラム減っただけで、それだけのエネルギーが生まれるんです。例えば三十グラム減ったとしますと、その三十倍ですから。だからそんなエネルギーが生まれるとすれば、その人が亡くなる時に思い残しているようなことが実現できるんじゃないかと考えられますよね
『あの世 この世』 瀬戸内寂聴/玄侑宗久 新潮文

video


人が死んで遷化するときのエネルギーで富士山が持ち上がるなら
亡霊が子供を持ち上げるくらい容易いことだろう
あなたなら、これだけのエネルギー
何に使うだろうか?
筆舌に尽くしがたい怒りを残し
亡くなっていく集団ストーカーの被害者は
何に使うだろうか?
集団ストーカー犯罪者の諸君は
くれぐれも気をつけられたい

386 - Dr. Rauni-Leena Luukanen Kilde - 10:13 - about ... "follows"