Sunday, April 10, 2016

死ぬ瞬間: 元の業の何万倍もの迫力でありありと体験

 ベートーヴェンは耳が聞こえないので、直接には聞こえないから、何か道具を使って、そこから伝わってくる波動で 、「ああ、こういう音だろう」と感じなくてはいけません。・・・でも本当に音楽を聴くと、すごくインパクトが強く聞こえるでしょう。例えば・・・ホールに行って、演奏しているその音楽そのものを直接聴くと、迫力が違うのです。[耳、神経、脳を通して間接的に感受している]普通の人間の状態というのは、耳が聞こえていた頃のベートーヴェンではなく、耳が聞こえなくなったベートーヴェンの状態なのです。でも、誰でも死ぬ瞬間は、身体は壊れてしまい、関係ないのです。それで、意門が直接、見たり、聞いたりする。ですから、死ぬ瞬間の現象というのは、並みの現象ではありません。ものすごく強烈なインパクトで迫ってきます。再現とか追体験などというものではなく、元の業の何万倍もの迫力で、ありありと体験してしまうのです。(p.p.318-319)

【アニメで学ぼう!集団ストーカー犯罪者の死後】
地獄に堕ちた者は、鉄の串を突き刺されるところに至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。さてまた灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは昔つくった業にふさわしい当然なことである。(Sutta-Nipata 667)

 臨終の心に再現されるこの現象が、一番リアルなのです。心で直接体験するのですから。生の体験なのです。
 臨終の本人の周りで看病している人々には、そんな心のことはさっぱりわかりません。もう、体が動かなくて、意識も朦朧としているように見えるのは、身体が意識のとおりに動いてくれないからだけで、本当は、臨終のときの意識は、それこそ死にものぐるいで動き回っているのです。[身体を離れる]引っ越しのときだから、そんなにのんびりするわけにもいきませんしね。ものすごい勢いで荷物を片付けたり・・心がすごく回転するのです。(p.319)

・・・建物のことではなく、荷物のことに心が行くのです。あるいは、新しい住居のことが頭にあって・・心が回転するのです。・・心が身体を捨てようとすると、身体のことはまったく無関心になる。その代わりに、心の中にはkamma業、kamma-nimitta業の相、gati趣、gati-nimitta趣の相という四つの対象のどれかが現れてきます。
 この四種類の対象のどれかが、心に最後に入る。その瞬間で、人が死んで、次の場所に生まれ変わります。
 そこで、問題があります。死ぬ瞬間、心はいつでも、どんな影響でも受けるのです。ですから、死ぬ最後の瞬間に思い出したことが良い行為や良いものであるならば、心が楽しくなる。悪いことを思い出したり悪いものが見えたりしたら、心が汚れて暗くなる
 まだ死んでいないのです。死んでいないのですが、身体にはもう興味がないので、心だけで何かが思い浮かぶ。(p.314)

・・・心が死ぬ瞬間で、何か過去にやったことが思い浮かんだら、その場面が、鮮明などころではなく、今の瞬間で実際にやっているような感じで、心そのものにありありと映ってしまうのです。そこから心を引き離すことは到底できません
 このようなことで、人間にとって輪廻転生することは、まったくお手上げ状態で、避けられるものではないのです。解脱していない限り、まるっきりコントロールはできないのです。(p.315)

アルボムッレ・スマナサーラ 『アビダンマ講義シリーズ〈第5巻〉業(カルマ)と輪廻の分析―ブッダの実践心理学』