Sunday, September 11, 2016

<森の集団ストーカーの死>


アジャンタ石窟壁画「水牛本生」

Picture borrowed from: 4travel.jp/travelogue/10054757

 1匹の猿が木からおりて、水牛の背中に乗った。そしてその上で大小便をしたり、角をつかんでぶらさがり、しっぽをつかんで動かしたりして遊んだりした。水牛は、忍耐の心と慈しみの心と憐みの心を具えていたので猿の狼藉を気にかけなかった。
 ・・・ある日、樹神が木の幹に立って、
「水牛王よ、あなたはどうしてこの悪い猿の侮辱をがまんするのですか・・・やめさせなさい。」
 これを聞いて水牛は、
「もしも私があの猿の罪過を耐え忍ばないとすれば、どうして私の願いが成就するでしょう。あの猿は他の水牛をも私と同じように考えて同じように狼藉をするでしょう。それから・・彼らは猿を殺すでしょう。それは他の水牛による猿の死です。そうなれば私にとっては猿から受ける苦しみもなくなるでしょうし、また殺生する必要もなくなるでしょう。」
 数日後に忍耐のある水牛は別の場所に行った。別の水牛が木の根元に立っていた。すると猿は同じ水牛だと考えて狼藉をした。その水牛は、猿を地面に落とし角で心臓をつきさして、足で踏み付けて粉々にしてしまった。
 忍耐、慈しみ、憐みの心を持っている水牛が前世の釈迦であった。(p.p.69-71)

田辺和子『仏教物語ジャータカを読む㊦』



アジャンタ石窟壁画「水牛本生」A.D. 5c頃

Picture borrowed from:ignca.nic.in/jatak007.htm


 これはまさに<森の集団ストーカーの死>。どこの国にも、どこの職場や学校にも、こういう「愚かな猿」は必ずいる。きっと100年前の世界にも、このアジャンタ石窟壁画が描かれた1500年前にも、そして釈尊が説法された2600年前にも、どこの国の、どの人の日常にも、こういう「愚かな猿」が必ずいたことだろう。だからこそ21世紀の現代まで、こうして『ジャータカ』の教えが継承されてきたわけだ。「優れた古典は作品が出来た瞬間からすでに古典である」と言った人がいるが、仏智の深遠さ普遍性の高さに改めて気づかされる。
遠い輪廻の記憶を辿ってみれば、この教訓に強いデジャヴュのような郷愁を感じる集団ストーカー犯罪者の諸君も多いのではないだろうか。なぜなら、どんなに立派な肩書や所有物で外見を取り繕っても、集団ストーカーをやる者は人間の祖先がまだ木の上で生活していた頃から、心の進歩が全くなく、何千萬年も時間が止まっているようなものなのだから。「意馬心猿(monkey mind)」とは実に的確に、その状態を表している。
 このお話を聞いて、その昔、しっぽがはえていた尾骶骨のあたりが、むずむずしてはいないか?

 あなた、集団ストーカーやめますか?
 それとも・・・人間やめますか?