Saturday, May 2, 2020

伝統ハ 心中ニ躍動セシメテ 力ヲ発揮


遺書
伝統ハ神秘ニシテ偉大ナリ。而シテ之レハ吾人ノ心ノ中ニアリ。伝統ソノモノハ何ラノ力ヲ有スルナシ、吾人ノ心中ニ躍動セシメテ初メテ驚クベキ力ヲ発揮ス。廉恥ナキ者ニ伝統ハ無価値ナリ。
陸士五十六期 白井又祐
 『あかねぐも第一集=原町飛行場関係戦没者の記録=』(p.96)

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【参考】
265 : 避難民のマジレスさん :2020/05/01(金) 19:41:22 ID:h5P9mv0k0
日本の原風景や文化を守ることは大事なことなんですか?
全てが移り変わるのが世の定めなら、守るべきものは何もないような気もします。

悪い行いではないと感じますが、移り変わりゆくものに多大な労力と時間を割くのもどうかなと思います。
文化や風景が変わらない、と言うのは本来ならあり得ないことですよね。

伝統の「形」にこだわって、それを守り維持し続ければ、いずれその想いや魂は復活するんでしょうか?
滅びるものは何をしても滅びる運命なんでしょうか。

266 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/05/01(金) 22:04:24 ID:1d4drIFg0

>>265 それによって人が自分を知ることができるならば大事なのじゃ。
 そうでなければ大事ではないのじゃ。
 ただの観念遊戯にもなるのじゃ。
 
 何も復活はしないのじゃ。
 もはや何のためにやっているのかもわからない伝統もあるからのう。
 全てのものは滅びるのじゃ。
 生きている間に自分を少しでも知ることだけが大事なのじゃ。

Sunday, April 12, 2020

集団ストーカーの前世はアズマヤドリか

アオアズマヤドリのオスは、メスの気を引くために不思議なU時形の建造物を作る。何百本もの細い枝を集めてきて、まるで籠でも編むかのようにびっしりと組み上げて行くのである。…残念ながらこれはディスプレイ専用である。彼らの本当の巣は樹上にあり、従ってこの建造物は庭園などに立てられた小粋な小屋、即ち東屋に相当する。
[・・・]
ところが、…ライバルのオスが隙を窺ってはやって来て、東屋を壊し、ついでに大事なコレクションを盗んでいったりするのである。
アメリカのG・ボージアは、アオアズマヤドリのこの“犯罪行為”について詳しく調査した。…それによると、東屋壊しの犯人はたいてい最も近くにすんでいる者である。“犯人”は主の留守を狙って抜き足差し足で近づいていく。あるいは近くの枝にじっと止まって主が出かけるのを待っている。全壊させることは稀で、たいていは半壊か小枝を数本抜きとるだけである。ただ、貴重な青い羽根を盗んでいくことだけはどの犯人も忘れない。当然と言うべきか、よくできた東屋ほど被害に遭いやすいこともわかった。

しかし驚いたことに、この調査によるとオスのほとんどすべてが何らかの犯罪者であるという。だから東屋めぐる犯罪模様は大混戦で、他人の東屋を壊しに行っている隙に自分の東屋が壊されてしまうとか、犯行の最中に主が帰ってきて大騒動になるというケースも珍しくない。オスはどうやら近所どうしで意地悪合戦をやっているらしい。

竹内久美子『そんなバカな!遺伝子と神について』

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【参考】

 古都に空襲がなかったのは、その文化財を保護するためにアメリカ軍が爆撃を控えていたからであり、そのことを進言した“古都の恩人”はウォーナー博士であるという、≪ウォ―ナー伝説≫は全く事実無根であった。
 米軍による爆撃によって焼失した日本の文化財は、国宝二九三件、史蹟名勝天然記念物四四件、重要美術品一四三件であり、合計四七一件もが灰になったという。
…CIEの前身は、太平洋戦争において「ラッカサン・ニュース」などで活躍した米軍の〈心理作戦課〉であった。…つまり対日心理作戦の専門部隊であった。そして、CIEの局長であるダイク准将も、《ウォーナー伝説》の創作者ヘンダーソン中佐も、共に対日心理作戦に従事した専門家だったのである。
 つまり、CCD[*民間検閲支援隊]が検閲を通して、原爆報道などアメリカの悪いイメージの流布を阻止することを任務としていたのに対して、CIEの任務は宣伝によって、日本軍国主義の批判やアメリカのよいイメージの普及をはかることにあったのである。

吉田守男『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』

Saturday, November 3, 2018

集団ストーカーが本来、受けねばならぬ罰

     You are on the wrong  side of  the bars.

[実際の絞首刑の現場]

バッター-ッン・・・・・・。
両の耳をつんざくような音が、乱暴に沈黙を切り裂いた。(三鷹事件の濡れ衣を着せられた)桜井が立っていた足元の踏み板が外れ、そのはずみで反対側の床の裏側に叩きつけられたのだ。上方の明かりとりの窓ガラスが、地震の時のようにビリビリと音をたてて震えた。

窓ガラスから下へ視線をもどすと、そこに立っていたはずの桜井の姿は、もうなかった。再び静まりかえった部屋で、天井からぶらさがった一本の太い縄だけが、ギッシギッシギッシ、不気味な音をたてて揺れていた。小さな円を描きながら小刻みに震え、時おり大きくブルブルッと揺れる絞縄の動きは、その場にいる全員に否応なく、地下に吊り下げられた人間の断末魔を想像させた。p.196

[処刑に立ち会う渡邉教誨師]

自分の目の前をロープが、ビーンッと伸びて、落ちていった体がグッ、グッ、グッとなるのをね、こうやって上から見るんです。
 ロープがね、あのロープがね、重さによって一本か二本、細いのがピシッピシッピシッと切れることがあるんです、体の重さでね。
・・・・失敗したからと言って助かりっこない、首が切れますから。p.p.201-202

・・・・何かあるとすぐに死刑、死刑と言うけどね、それを実際にやらされている者のことを、ちっと考えてほしいよ。p.203 (渡邉)

堀川恵子『教誨師

Monday, September 3, 2018

Samsara of the COINTELPRO perps

You should know that the more blessings you enjoy, the greater the evil karma you are likely to create, making it difficult to avoid the path of hells, hungry ghosts and animality in the third lifetime. (p.115)

Footnote: In the first lifetime, the practitioner engages in mundane good deeds which bring ephemeral worldly blessings (wealth, power, authority, etc.) in the second lifetime. Since power tends to corrupt, he is likely to create evil karma, resulting in retribution in the third lifetime. Thus, good deeds in the first lifetime are potential "enemies" of the third lifetime. (p. 119)

Master Yin Kuang, "Pure-Land Zen Zen Pure-Land

Sunday, April 22, 2018

死を目前にして、もう一度だけ

ソ連兵の家族写真

 武装解除した九一師団は、ソ連軍の許可を得て戦場整理を始めた。戦場整理とは戦場に残る遺体を回収して葬ることを指す。…近くの草むらを見渡すと、一体の遺体が横たわっているのに気がついた。軍服からソ連兵に間違いなかった。
「あれっ。ロスケが死んでいやがる。この野郎、攻めてきやがって」
小田らは悪態をつきながらさっそく近づいた。…ソ連兵は四嶺山の方を向いて右半身を下にして倒れ、左手を伸ばして、その手の先には何かを握っていた。…
「この野郎。何を持っていやがる」
小田が手を伸ばして確かめると、それは黒い手帳だった。小田の指先が触れた拍子に手帳が地面に落ちて、手の中には一枚の写真だけが残った。小田が手にしてよく見ると家族写真だった。
 海軍士官の軍服姿の男が右に立っていた。死んだ本人だった。左端にはマリア様のような美しいロシア人女性がつつましい笑顔を浮かべて並び、真ん中には四歳ぐらいの男の子がいた。…小田は、女性は妻で家族写真に違いないと確信した。
…そこにはある家族の幸せな暮らしがあった。
この写真を見たとき、小田は雷に打たれたような衝撃を感じた。
「こんな美しい奥さんとかわいい子供を残して、この男はなぜ死ななければならないのか。とっくに戦争は終わっているはずなのに」
小田の目に涙がにじんだ。…このソ連軍将校は死を目前にして、もう一度だけ妻や子供の姿を見たいと胸ポケットの手帳を取り出そうとしたのではないか。…小田は手帳と財布を将校の軍服の内ポケットに納めて、胸のボタンを締めてやった。もう二度と大切な宝物を落とさないようにと。


相原秀起『一九四五 占守島の真実』

Saturday, September 30, 2017

Mindfulness on your deathbed

Such a disinterested enjoyment of nature as shown by Shingen and Kenshin even in the midst of warlike activities, is known as furyu, and those without this feeling of furyu are classed among the most uncultured in Japan.  The feeling is not merely aesthetical, it has also a religious significance. It is perhaps the same mental attitude that has created the custom among cultured Japanese of writing a verse in either Japanese or Chinese at the moment of death. The verse is known as the “partig-with-life verse.” The Japanese have been taught and trained to be able to find a moment’s leisure to detach themselves from the intensest excitements in which they may happen to be placed. Death is the most serious affair absorbing all one’s attention but the cultured Japanese think they ought to be able to transcend it and view it objectively.

D.T. Suzuki, "Zen and The Japanese Culture"

[有名な故事「敵に塩を送る」など]戦の真最中に、信玄や謙信が示した、かかる利害を超越した「自然」の享楽は「風流」と呼ばれている。この風流の感情なきものは、日本では最も教養のないもののなかに入れられている。この感情は単に美的のみならず宗教的な意義をもっている。諸芸に通じた教養ある日本人の間に、臨終に際して詩歌をかく習慣を創始したのも、おそらくは同じ心的態度にもとづく。かかる詩歌は「辞世の詩や歌」として知られている。日本人は自分たちが最も激しい興奮の状に置かれることがあっても、そこから自己を引離す一瞬の余裕を見つけるように教えられ、また、鍛練されてきた。死は一切の注意力を集注させる最も厳粛な出来事であるが、教養ある日本人はそれを超越して、客観的に視なければならぬと考えている。
(p.93)


鈴木大拙『禅と日本文化』

らちもないことを始めて


 私は長い間、亡き方のお手紙を桐の手箱に納めて箪笥に秘めていた。それは原町飛行場で厳しい訓練に明け暮れていた若い飛行兵達から私に送られたものだった。
 昭和十九年秋、彼等は決戦に馳せ参じる決意で気負い立っていた。涙ながらに見送る私達に、或る人は淡々と、或る人は人間的苦悩をみせて別れて行ったが、どの人も自分達が亡き後も新聞、映画に戦果をたたえられて、いつまでも人々の胸に生き続けると信じて征った。
「新聞を見て下さいよ。」と口々に言った言葉が、ありありと私の耳に残っていた。
 しかし、敗戦を迎えたとき世論は一変した。特攻隊員は異常な人でもあるかの様に言われていた。
 可哀相に、生命を賭けて守ろうとした日本と、国民にののしられ忘れられるあの方々。敗戦であっても、生命をかけた行為が罪悪とまで言われなければならないことなのであろうか。
 私まで忘れてはしまえない。満州で特攻命令を受けて敗戦で生き残った主人に頼んだ。この手紙は私が生涯、大事に持ち続けます。死んだら私の柩に納めて一緒に焼いて下さいと。(p.1)

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 昭和四十九年、沖縄戦で戦死された六十六戦隊、川口弘太朗さんの弟、川口剛さんが原町の慰霊碑に参拝においでになった。
・・・「一生懸命作って、兄貴たちを逝かせてしまって…… 怠けてればよかった」。剛さんは、各務原の工場に勤労動員として行き、飛行機の部品を作っていたという。この言葉は、私達戦中派に共通の後ろめたい思いを代表している。私が懸命に慰問文を書き、役に立たない[自分の]身を嘆いた事は、あの方々を一途に死に追い込む事になったのではないかと悲しまれる。


 戦争責任というものがあるものなら、戦犯、軍人などばかりが罪人とは言えないのではないか。あの時代に生きた者一人一人罪を犯しているはずである。太平洋戦争の始まった日、十六年十二月八日に私の身辺で、困った事がおきたと言った人はなく、遠縁のおじいさんで日露戦争に従軍したことのある方一人だけだった。「らちもないことを始めて」と吐きすてる様に言ったのを聞いた。国民の大部分、真実をしらぬままではあるものの、戦争を喜んだのだ。いま戦争を知らない人達はよくこんなことを言う。「入隊を断ればよかったのに」とか「逃げればよかったのに」などと……。そんなこと出来るはずもなく、また、その様な発想もなかった。軍国主義の教育を受けて信じていた私達若者だった。


 流されて生きたのは、私達も、あの戦って死んだ人も同じだった。そして彼等は怒涛に呑み込まれてしまった。後世の人の批判にも賞賛にも答えるすべのない世に行ってしまった。生き残った私達は、当時の思いも行動も、こうして弁解する事が出来るが……。
 必死に生き、そして戦死した青年達の息吹きをいくらかでも伝え代弁してあげたい。(p.p.52-53)


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 ・・・[特攻隊員のひとりが原町を旅立った]この朝受けた電話も、心に残る一事だった。出発時刻変更を告げた後、受話器の向うの人は、語るべき思いも言えぬまま長い時間受話器を持っていた。そして答える言葉も持たず私も送話器の前に立ちすくんでいた。これから生きて語るべき言葉を、その一刻に圧縮した重い沈黙だった。十五歳の少女の私にはすべもない深い深い沈黙だった。その重みは私にずしりと伝わって来て耐えきれず、ついに私の方から別れの言葉を告げた。何故、私は別れを告げてしまったのだろう。受話器を持ちつづけた彼は何かを語ろうとしていたのではなかったか。受話器を置けば永別、手がしびれる程待ちつづけていればよかったのに。

 この手記を書きだした或る日、この電話の場をそっくり再現した夢を見た。その中ではさすがに私も十五歳の少女ではなかった。噴き出す思いを如何に伝えようかと焦って、問いかけたが、やはりあの日の様に受話器のむこうは一語も漏れて来ない深い沈黙のままだった。私は、「何で返事が出来ないんですか。軍の秘密なのですか」と叫んで夢から覚めた。今も軍の秘密などという事が夢にでる私は、生涯心に傷を負って生きていることを私自身知らされるのだった。(p.100)


          ******

十月三日
[...]
いつだったか斉藤さんに人間の本能で自爆する時、自爆目標が目の前に大きく見え出すと、無意識のうちに飛行機をあげてしまふ。それでその時は飛行機をぜったいにあがらぬ様にしてしまふか、ピストルで自分の頭を射ち抜くかするんだと言ふ話を聞き、人間ってそんなものか知ら、今まで自爆なんて事を何の気なしに聞いて居たったけど、皆そんな風にして自爆してゆかれたのか。そんなにまで強い人間の本能をおさえて……と思ったら、暗い気持ちになるっていろゝと考へて居た時だったからなほ感[慨]深かった。(p.p.55-56)

          ******

 敗戦後の特攻隊員、戦死者に対する世間の評価は冷たいものだった。
 軍部にあやつられ、単純に命を捨てた愚かな若者と思われていた。思い出を口にするのもはばかられる世相となっていた。
 いまになっても、前後の見通しもつかないまま行動すると「特攻」の名を冠らされる事をもっても、いかに当時、軽侮の視線をなげられたかわかると思う。
 ご遺族はどんなにつらかったであろう。大切な肉親を無理に奪われ、その上、冷たい世論を受けなければならなかったのだ。
 私は人間としての彼等と親しくつきあった。たとえ軍人であろうと、人として豊かな情感を持っていて、それでも、それを圧殺して任務を全うした人々だったのに、その噂すら話すことも出来ない。(p.p.119-120)

         ******

 或る日「寺田さんが戦果をあげたのかどうか不明なのは残念でならない。命を捨てたのに」と遊びに来ていた青年に私がつぶやいた。
「だったら敵を大勢殺して死ねばよかったのですか」。彼に反論されて私は大変な衝撃を受け、頭をなぐられた様な思いだった。
 そうなのだ。戦果というのは相手を殺すことなのだ。人間である相手を。……
 それまで、私の頭の中は戦後三十年もすぎていても、戦争は机上の戦争と同じだったのかも知れなかった。

撃沈される船にのっているアメリカ兵も、親も子、恋人もいる人間であることに思い及ばぬ幼さというか、戦時中で、思考の止ってしまっていた人間だった。(p.135)


八牧美喜子『いのち ― 戦時下の一少女の日記』