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Thursday, July 17, 2025

七生報「友」

 戦後80年の間に日本人が失ってしまったものとは? 特攻の記憶を宿した少年が語る
https://www.youtube.com/watch?v=Z2ZefMo78zU


人は何のために生きるのか? 10歳の男の子に宿った特攻隊の記憶
https://www.youtube.com/watch?v=Vp4_DTQ73Io


戦前の軍人の多くが矜持した「七生報国」は、楠木正成が戦で自刃するときに、後醍醐天皇に対し遺した言葉で、穴澤氏の言うとおり「死んで七度、生まれ変わっても、国のため報いる」という誓い。天皇に最後まで忠義を盡した楠公は戦前の軍人の鏡で、回天の胴体にも楠木家の家紋「菊水」が描かれている。

生まれ変わる回数の「七度」は仏教の悟りの最初の段階【預流果】に達すると、あと七回(ただし畜生、餓鬼、地獄はない)生まれ変わったら煩悩が尽き輪廻転生が終わることから来ている。次の段階が、あと一回だけ天界と人間界に生まれる「一還果」、その次がもうこの娑婆世界には転生しない「不還果」。

 「忍耐・堪忍は最上の修行である」ブッダ


ところで、なぜ戦後「腐りきったヘタレの世」になったのか。それは冷酷非道に人を傷つけ平和を破壊するサイコパスに怯むことなく命を懸けて人間の盾となり同胞を守る勇敢な者ほど早く亡くなり、卑怯で臆病に逃げ回るオッサンらが生き延びたから。
特高警察のオッサンらはアメリカ人将校に跪いてブーツにキスして命乞いしたおかげで戦後も公安警察として生かしてもらえているのは有名な話。

COINTELPRO集団ストーカー犯罪やってる公安、カルト、ヤクザのオッサンら見ればわかるだろう。いい歳したオッサンが何十何百も群れで被害者一人を相手に集団で虐待し、やってないと嘘吐き逃げる。虚勢を張ってるが、所詮、卑怯で臆病な一人では何もできない弱いオッサンの集団にすぎないのだ。

きっとアメリカ人様に「お前ら誰のおかげで、いいおもいできると思ってんだ、ああ?」と、すごまれると「ははあぁーっ」と土下座して恐れ入ってしまうのであろう。さらに死んでから地獄があったら困るような悪事を行なっているから、輪廻転生があることを認められず、必死に否定するのだ。

いっぽう、同胞を守るため勇敢に戦った勇者はこうして続々と生まれ変わってくる。
袖振り合うも他生の縁。
転生した特攻隊員を見て共感する皆様方もまた、前世で戦のもたらす悲しみを経験した「友」に違いない。
あと6回、腐ったヘタレの世界にあっても腐らず、ともに人を助け世の哀しみを減らす大事を必ずや成し遂げむ。

「平時に処し猶ほ克く 特攻精神を堅持し
 日本民族の福祉と 世界人類の和平の為
 最善を尽せよ」
 海軍中将 大西瀧治郎

 

「我々は最後の砦。後は無い。」
 https://www.youtube.com/watch?v=kOpxI8k1Emc
東日本大震災の記録
 ただ、目の前の命のために。
全国民の「想い」を胸に、被災地へ、
 Dhammapada423 
 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。


Saturday, May 2, 2020

伝統ハ 心中ニ躍動セシメテ 力ヲ発揮


遺書
伝統ハ神秘ニシテ偉大ナリ。而シテ之レハ吾人ノ心ノ中ニアリ。伝統ソノモノハ何ラノ力ヲ有スルナシ、吾人ノ心中ニ躍動セシメテ初メテ驚クベキ力ヲ発揮ス。廉恥ナキ者ニ伝統ハ無価値ナリ。
陸士五十六期 白井又祐
 『あかねぐも第一集=原町飛行場関係戦没者の記録=』(p.96)

****************
【参考】
265 : 避難民のマジレスさん :2020/05/01(金) 19:41:22 ID:h5P9mv0k0
日本の原風景や文化を守ることは大事なことなんですか?
全てが移り変わるのが世の定めなら、守るべきものは何もないような気もします。

悪い行いではないと感じますが、移り変わりゆくものに多大な労力と時間を割くのもどうかなと思います。
文化や風景が変わらない、と言うのは本来ならあり得ないことですよね。

伝統の「形」にこだわって、それを守り維持し続ければ、いずれその想いや魂は復活するんでしょうか?
滅びるものは何をしても滅びる運命なんでしょうか。

266 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/05/01(金) 22:04:24 ID:1d4drIFg0

>>265 それによって人が自分を知ることができるならば大事なのじゃ。
 そうでなければ大事ではないのじゃ。
 ただの観念遊戯にもなるのじゃ。
 
 何も復活はしないのじゃ。
 もはや何のためにやっているのかもわからない伝統もあるからのう。
 全てのものは滅びるのじゃ。
 生きている間に自分を少しでも知ることだけが大事なのじゃ。

Saturday, September 30, 2017

らちもないことを始めて


 私は長い間、亡き方のお手紙を桐の手箱に納めて箪笥に秘めていた。それは原町飛行場で厳しい訓練に明け暮れていた若い飛行兵達から私に送られたものだった。
 昭和十九年秋、彼等は決戦に馳せ参じる決意で気負い立っていた。涙ながらに見送る私達に、或る人は淡々と、或る人は人間的苦悩をみせて別れて行ったが、どの人も自分達が亡き後も新聞、映画に戦果をたたえられて、いつまでも人々の胸に生き続けると信じて征った。
「新聞を見て下さいよ。」と口々に言った言葉が、ありありと私の耳に残っていた。
 しかし、敗戦を迎えたとき世論は一変した。特攻隊員は異常な人でもあるかの様に言われていた。
 可哀相に、生命を賭けて守ろうとした日本と、国民にののしられ忘れられるあの方々。敗戦であっても、生命をかけた行為が罪悪とまで言われなければならないことなのであろうか。
 私まで忘れてはしまえない。満州で特攻命令を受けて敗戦で生き残った主人に頼んだ。この手紙は私が生涯、大事に持ち続けます。死んだら私の柩に納めて一緒に焼いて下さいと。(p.1)

        ******

 昭和四十九年、沖縄戦で戦死された六十六戦隊、川口弘太朗さんの弟、川口剛さんが原町の慰霊碑に参拝においでになった。
・・・「一生懸命作って、兄貴たちを逝かせてしまって…… 怠けてればよかった」。剛さんは、各務原の工場に勤労動員として行き、飛行機の部品を作っていたという。この言葉は、私達戦中派に共通の後ろめたい思いを代表している。私が懸命に慰問文を書き、役に立たない[自分の]身を嘆いた事は、あの方々を一途に死に追い込む事になったのではないかと悲しまれる。


 戦争責任というものがあるものなら、戦犯、軍人などばかりが罪人とは言えないのではないか。あの時代に生きた者一人一人罪を犯しているはずである。太平洋戦争の始まった日、十六年十二月八日に私の身辺で、困った事がおきたと言った人はなく、遠縁のおじいさんで日露戦争に従軍したことのある方一人だけだった。「らちもないことを始めて」と吐きすてる様に言ったのを聞いた。国民の大部分、真実をしらぬままではあるものの、戦争を喜んだのだ。いま戦争を知らない人達はよくこんなことを言う。「入隊を断ればよかったのに」とか「逃げればよかったのに」などと……。そんなこと出来るはずもなく、また、その様な発想もなかった。軍国主義の教育を受けて信じていた私達若者だった。


 流されて生きたのは、私達も、あの戦って死んだ人も同じだった。そして彼等は怒涛に呑み込まれてしまった。後世の人の批判にも賞賛にも答えるすべのない世に行ってしまった。生き残った私達は、当時の思いも行動も、こうして弁解する事が出来るが……。
 必死に生き、そして戦死した青年達の息吹きをいくらかでも伝え代弁してあげたい。(p.p.52-53)


          ******


 ・・・[特攻隊員のひとりが原町を旅立った]この朝受けた電話も、心に残る一事だった。出発時刻変更を告げた後、受話器の向うの人は、語るべき思いも言えぬまま長い時間受話器を持っていた。そして答える言葉も持たず私も送話器の前に立ちすくんでいた。これから生きて語るべき言葉を、その一刻に圧縮した重い沈黙だった。十五歳の少女の私にはすべもない深い深い沈黙だった。その重みは私にずしりと伝わって来て耐えきれず、ついに私の方から別れの言葉を告げた。何故、私は別れを告げてしまったのだろう。受話器を持ちつづけた彼は何かを語ろうとしていたのではなかったか。受話器を置けば永別、手がしびれる程待ちつづけていればよかったのに。

 この手記を書きだした或る日、この電話の場をそっくり再現した夢を見た。その中ではさすがに私も十五歳の少女ではなかった。噴き出す思いを如何に伝えようかと焦って、問いかけたが、やはりあの日の様に受話器のむこうは一語も漏れて来ない深い沈黙のままだった。私は、「何で返事が出来ないんですか。軍の秘密なのですか」と叫んで夢から覚めた。今も軍の秘密などという事が夢にでる私は、生涯心に傷を負って生きていることを私自身知らされるのだった。(p.100)


          ******

十月三日
[...]
いつだったか斉藤さんに人間の本能で自爆する時、自爆目標が目の前に大きく見え出すと、無意識のうちに飛行機をあげてしまふ。それでその時は飛行機をぜったいにあがらぬ様にしてしまふか、ピストルで自分の頭を射ち抜くかするんだと言ふ話を聞き、人間ってそんなものか知ら、今まで自爆なんて事を何の気なしに聞いて居たったけど、皆そんな風にして自爆してゆかれたのか。そんなにまで強い人間の本能をおさえて……と思ったら、暗い気持ちになるっていろゝと考へて居た時だったからなほ感[慨]深かった。(p.p.55-56)

          ******

 敗戦後の特攻隊員、戦死者に対する世間の評価は冷たいものだった。
 軍部にあやつられ、単純に命を捨てた愚かな若者と思われていた。思い出を口にするのもはばかられる世相となっていた。
 いまになっても、前後の見通しもつかないまま行動すると「特攻」の名を冠らされる事をもっても、いかに当時、軽侮の視線をなげられたかわかると思う。
 ご遺族はどんなにつらかったであろう。大切な肉親を無理に奪われ、その上、冷たい世論を受けなければならなかったのだ。
 私は人間としての彼等と親しくつきあった。たとえ軍人であろうと、人として豊かな情感を持っていて、それでも、それを圧殺して任務を全うした人々だったのに、その噂すら話すことも出来ない。(p.p.119-120)

         ******

 或る日「寺田さんが戦果をあげたのかどうか不明なのは残念でならない。命を捨てたのに」と遊びに来ていた青年に私がつぶやいた。
「だったら敵を大勢殺して死ねばよかったのですか」。彼に反論されて私は大変な衝撃を受け、頭をなぐられた様な思いだった。
 そうなのだ。戦果というのは相手を殺すことなのだ。人間である相手を。……
 それまで、私の頭の中は戦後三十年もすぎていても、戦争は机上の戦争と同じだったのかも知れなかった。

撃沈される船にのっているアメリカ兵も、親も子、恋人もいる人間であることに思い及ばぬ幼さというか、戦時中で、思考の止ってしまっていた人間だった。(p.135)


八牧美喜子『いのち ― 戦時下の一少女の日記』

Monday, May 22, 2017

一心不亂

…原町市南町の東本願寺別院や浪江町幾世橋の大聖寺をしばしば訪問した[廣森達郎]中尉は、戦いのなかの死とはなにかを問い続け、悟りを得ようと努力に努力を重ねた。

[血書]
破邪絶忠
我、今、宿善の助クルニヨリ、己二受ケ難キ人身ヲ受ケタルノミアラズ、生死ノ中ノ景勝ナルベシ。
水ずくも燃ゆるも何をか悔いざらむ
君に捧げし命なりせば
[…]
吾人罪業深キ人間ナレバ之ガ中核ハ我執ニ依リ覆ワレアリ
サレド一度大悲願ニ接センカ我執ノ我ハ御民我トナリ本体ハ確然タリ
[…]
昭和十八年十月二十日 記 於別院 達郎
(注=この血書は、飛行学校所在の原町東本願寺別院の北上上人を尋ね、夜を徹して問答し、ある心境に達して、自らの指先を切って認めたものである。)(p.p.251-252)



廣森達郎 原町在住日記[昭和十八年]

十月三十一日
浪江ノ青田ノ家ニ至ル。大洋ノナガメハ各別ナリ。返シテハ寄セ、寄セテハ返ス浪、コノ現象ハ神代ヨリ続キナオ無限ニ続カン。ナンゾ瞬時ノ人生ニ迷ワン


また大聖寺にあてた手紙は次のとおり。
「…西のほうに向かって大きくうたってください。耳をすまして聞きます。私の忘れられない歌は次のものです。
 うさぎ追いし かの山 こぶな釣りしかの川 夢は今も めぐりて 忘れがたき故郷……。さようなら 廣森」(p.42)



[神中佐手記より]

…説明終わると、廣森中尉は全員を集めて話をした。
「いよいよ明朝、特攻だ。いつものようにオレについてきてほしい。次のことだけは約束しよう。こんど生まれ変わったら、そして、それがウジ虫であろうと、国を愛する心だけは失わないようにしよう」

それを聞いて私は呼吸が絶たれるような衝撃を受け、事実いてもたってもおられなくなった。私は足ばやに離れ、とめどもなく流れる感激の、否、悲しみの涙をどうすることもできなかった。・・・[廣森中尉出撃の]二十七日早朝、牛島軍司令官を案内して首里山上に立った。
・・薄明のあの短い時間を利用しての突撃である。三機、また三機、そして三機が次々に首里山上を過ぎていく。いままで眠っていたように遊弋していた敵艦が慌てて動き出した。が、もはや間に合わない。ハヤブサのように降下する飛行機は吸い込まれるように次々に艦艇に命中する・・牛島司令官は、つと振り向いて「中央へ電文の起案を」 ― そして頭を垂れて目をつぶった。(p.p.41-42)


『嗚呼 原町陸軍飛行場』

Monday, May 15, 2017

倶會一處(倶に一処に会ふ)

福島県相馬郡原町本町一丁目 
松永ノ皆様

・・・魚本の連中[※原町の料亭の常連]は昨日此の地を元気よく南に飛び去っていきました[※特攻出撃のこと]。小生達も今日か明日でせう。
[・・・]
小生始めて参上してより出発迄親身に勝る御愛情をいたゞき深く深く感謝致すとゝもにお言葉にあまえていろいろご無理をいった事を深く御詫び申上げます。
[・・・]
カタ餅[※相馬名物の凍み餅]有難う御座いました。飛行中たべておいしかった事、全部たべないで一つだけ大事に持って居りますよ、原町の臭いをかぐ為に。小生は戦死したならば、伊セに帰らず、第一番に思出多き原町を訪れる事でせう。その時は足が無いからとて、おっぽりださないでくださいよ。
それから美喜ちゃん、小生の好きな音盤、白鳥をかけて下さい。遠い此の地で耳をすまして聞いて居る事でせう。


六月五日
 
西部一八九三四部隊気付特別攻撃隊
振武隊国華隊
陸軍々曹 加藤俊二
同    井上 清  拝



 私は、白鳥とパリー祭が表裏の一枚の大切なレコードを取り出した。雑音の多い古いレコードは、確かにこの白鳥の曲を耳すませて聞いている人が、遠くにいる様に感じられてならなかった。

八牧美喜子『いのち ― 戦時下の一少女の日記』


映画「トテチータ・チキチータ」予告編  

あなたには、守る人がいますか?

Friday, May 12, 2017

一期一会  自分の死を語ろう 

小山少尉は原町出発のとき次のことを書き残した。

「恋しき原町……という二編返しの文句があったが、ほんとうに原町は一度きたら去りたくない。民情豊かなる相馬 ―。比島のはてに消ゆるとも、また南海の露と消ゆるとも、忘れ得ぬ思い出第二のふるさと。相馬原町の発展を祈る。」

二〇年二月六日、フィリピンの空戦で戦死した。岡山県の出身、二十一歳だった。

『嗚呼 原町陸軍飛行場』 

    *********************




映画「トテチータ・チキチータ」パイロット版
  
トテチータって何?

この世に思いを残して亡くなった人間が、龍になって、
自分の家族とか、愛する人を空の上から見守っている —

Thursday, November 10, 2016

東日本の21世紀の玉都(たまいち)たちへ


若侍に化けた大蛇:見事な音色だ。 もうこの琵琶が聞けぬとは残念でならぬ。・・・人間大蛇だ。
盲目の僧・玉都(たまいち)坊:大蛇—!!
大蛇: なにせ身が大きくなり すぐこの沼ももう せまくなってしまった。 もはや大蛇からリュウに化身する。 わしら夫婦が住むために 明日から七日七晩大雨を降らしこの小高郷一帯を大沼にする。
玉都坊: 小高郷を沼に!?
大蛇: よいか人に言うではないぞ・・・人に言えば おまえの命はないぞ!!・・・そうだ・・・大沼になり 自分が住むようになったら お前の目を直し 小高郷の殿様にしてやろう。 さらばじゃ!!
玉都坊: がんをかけにきて 大蛇との出会いも 薬師様のご利益にちがいない。 ははははは
女人に権現した観音菩薩: これ お坊・・・私は今の若侍との話を一部始終聞かせてもらいました。 そなたは目が見えるようになれば確かにうれしゅうござろう、しかし小高郷に住む者たちはどうなろうか。もしあなたに人を思う気持ちがあるのなら、あの悪い大蛇を退治するのです
玉都坊:目が治り殿様になれる・・・しかし私は仏に仕える身だ!! よし、私がぎせいになり人々を助けよう。
観音菩薩:それでこそ立派なお坊じゃよ。
     ***
玉都坊:急いでお城の殿様に訴えなければ。・・・良かったこれで皆助かる。こんな気持ちの良いことをしたのは生まれて初めてだ。
大蛇:玉都 約束通り命をもらうぞ!!
堀内城の侍たち:お坊が橋にたたきつけられたぞ。もうだめだ!!
     ***
光胤:玉都というお坊のおかげで小高郷を守ることができた。
小高郷民:これもみんな玉都さんが命を捨てて秘密を教えてくれたからだ。
子供たち: 玉都さん、私たちの喜んでいる顔が見えますか? 玉都さんが命をかけて助けてくれた この美しい小高の里を 大切に大切に守っていきます。 ありがとう玉都さん。
日本三大石仏のひとつ 国指定史跡「小高の薬師堂石仏」picture borrowed from: www.minami-soma.com/kanko/modules/d3blog/details.php?bid=440


【大蛇物語のできた時代背景】

 建武年間、王朝方は、足利の拠点である相馬氏を滅ぼす手段として、[小高の]堀内城の水攻めを考えた。・・要塞堅固な城であったが、増水に弱い。この弱点を、旧城主玉都坊の献策によって知った王朝方は、[小高]郷民の難渋を考えたが、窮余の手段として涙を呑み、日時を定め、上流の総ての堤を一斉に決壊して洪水を起こし、堀内城を水浸しにして壊滅しようと謀議した。・・・そして相馬氏が滅亡した暁には、玉都坊が以前の如く領主に返り咲くことが約束されていた。
 だが主役の玉都坊は決行の日が近づくにつれ、悶々として心休まらない。・・・自分を旧領主として慕う多くの領民が、堀内城水没の犠牲となって溺死する。たとえ命は助かったとしても、住む家は流され、耕す田畑は泥土と化し、それに破られた堤には水がない。作付の出来ない百姓らはどうして暮らすのだろうかと思い悩むのだった。
 決行当夜大悲山薬師堂に参篭し、一心にお経を唱えると、いつか無我の境地に落ちて心の葛藤が静まり、人間として、自分の進むべき道を悟り、小高郷民のため身を捨てる覚悟をしたのだった。小高郷民を害から守ろうと決心した玉都坊は、堤襲撃隊士らの隙を見て薬師堂を脱出し、一目散に光胤公のいる堀内城へと走った。一方襲撃隊士らは・・密告を終え、堀内城から出てくる玉都坊を見つけ、これを待ち伏せ、橋の上で惨殺した。また玉都坊の注進によって一大事を知った光胤公は、急遽武装した兵士を招集し、自ら大将となって薬師堂を急襲した。

*福島県南相馬市小高区の地名の由来
琵琶橋:玉都坊の琵琶が落ちた橋
角部内(つのべうち):刀で切られ退治された大蛇の角が落ちた地
耳谷(みみがい):大蛇の耳が落ちた地
女場(おなば):大蛇の歯が落ちた地

 当時同地には王朝方で活躍する相馬胤平公が住したという説もあるので、勝利した光胤公は、続いて耳谷、女場、角部内館も攻略したことであろう。そう云えば、角部内の北に位置する村上城には、後で後村上天皇になられる義良親王が、一時玉坐を構えていたとの伝説もある。

小高町編纂『大悲山大蛇物語』

http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db//txt/10080.005/index.html


そして21世紀の東日本では・・・・

私は、前金融大臣、竹中平蔵と対談した際、「なぜ日本人は経済システムの管轄権を、アメリカ人の集団や欧州の独裁グループに手渡し、彼らにすっかり支配されてしまっているのか」と尋ねた。竹中は「地震兵器で脅されているからだ」と答えた。(ベンジャミン・フルフォード)


 Ex Japanese Finance Minister confirms USA have threatened with Earthquake weapon         

 なおフルフォード氏は、竹中が見返りに500億円の賄賂を受け取っていたことを明らかにした。そして東日本大震災発生の「直前」に、竹中の親族が土木建築関連企業の株を大量に購入していたことも公になっている。これらの株は、多くの家屋が破壊された震災後に急騰している。


Chinese Mafia destroy Illuminati Interview with D Rockefeller Benjamin Fulford  

 竹中へのインタビューのまさに翌日、フルフォード氏はある男からコンタクトを求められたという。会うと、その男はプロの暗殺者であると言い、フリーメイソンのバッジを手渡してフルフォード氏に告げた。「あなたはこのまま陰謀者の正体を暴露し続け46歳で死ぬか、それともフリーメイソンの仲間に入って日本の金融担当の要職に就くこともできる。」

Saturday, July 9, 2016

真の自覚から生まれた死でなければ意味がない

「日本は勝てない。いや、負けたほうがいいんだ」
これは、いままでの私が受けた教育を、すべて否定するものである。いまの私という存在をすら、否定することばである。こんなことばに、はじめて私は出会ったのだ。
 うろたえて、あるいは強い反発を感じて、私は彼の顔をまざまざと見直した。
 が、そういってから、ニコニコして私を見つめている彼は、いつものとおりの温和なM少尉にもどっている。
「不満そうだが、それじゃ君は、勝てるとでも思っているのかい」
 いわれて私は返答に困ってしまった・・・。
「勝てるとは思えないとしても、負けたほうがいいとは、いったいどういうことなんですか」
下手なことをいったら、たとえ上官でも許さんぞという気持ちが強く胸にあふれていた・・・。
「死というものに、自分なりに意義を見出さなければ納得できないんだ。魚雷に乗って、“天皇陛下万歳”と叫んで単純に突っ込めば、特攻隊としての任務は果たされる。もちろんそれでもいい。しかし、俺はね、それだけじゃいやなんだよ。それだけで満足できるかい?」
「できます。よしんばできなくたって、ほかにしかたがないではないですか」
「そこだよ、俺のいいたいのは。・・・君が小さいときから受けてきた教育というものが、いかにでたらめだったか、考えたこともないだろう。だが、事実なんだよ。君が誇りをもって死ねるということは、君が他のことを考えないように教育されてきたからだ」
「・・・・」
「国を憂えるのはよい。しかし、真の自覚から生まれた果敢な突撃でなければ、意味がないじゃあないか。外部からウソをたたき込まれ、考えもなくそれに共鳴して、ひとつしかない大事な命を捨てるなんて、愚の骨頂だよ」
「それじゃあ、M少尉はどんな信念をお持ちなんですか」
「・・・いちばん考えたのは、自分が死ぬということだよ。・・・俺はな、こう考えたんだ。つまり、俺は天皇のために死ぬんじゃない。俺だけは違う。俺は新生日本の礎石となる。そのさきがけになるために死ぬんだ、とな。そう考えて、やっと俺は悩みを解決したんだ・・・。」私はそのときのM少尉の目の輝きを忘れることができない。出撃を前にして、あの時代にこれだけのことを考えた男が、果たして何人いただろうか。


横田寛『あゝ回天特攻隊』

Sunday, April 10, 2016

敗戦後の今日を見ては果たして成仏できるや否や


 大津島に行く二、三日前だったか、小生は大竹へ机上襲撃演習に行くことになっていたので・・・(兄と)会して愉快に飲み、兄の泊まるまで世話出来て気持ちよく別れた。これが最後になるかも知れない、というので飲んだのだが、まだ出撃までに二、三ヶ月もあろうし、大浦にも用事があってくるだろうから、一度や二度は顔を合わせられるだろうと思っていた。図らさりき、数日後には一小木箱に納まった兄に見えんとは。

 兄の死を知ったのは、潜校からP基地に帰る日だった・・・少将が・・・『黒木が死んだよ。樋口と一緒に』とずばりと言われた。『しまった』、これが兄の死を聞いた時の偽らぬ感じであった。・・・大竹駅まで言葉を出すのも嫌だった。

 遺骨が到着するというので、駅に出迎えに行った。・・・小さな遺骨箱がとても重かった。これが樋口であり黒木であると言われても、本当の気はしなかった。

・・・兄がもし後1ヶ月半くらい生きて神風特攻隊のことを聞いたら、ずいぶん喜んだろうと思う。

・・・大浦に久し振りに来た仁科と・・・会って夜を徹して話したことがあったが、・・・仁科は、兄の回天を育てた主要目的の一つに、航空隊の奮起を促す点があり、すでに目的の一つは達せられたのだと悟っていた。そうして後は敵を轟沈することだから、それは私が一緒に乗っていてあげることにする。それで兄の成仏間違いなしと言っていた。が、敗戦後の今日の状態を見ては果たして成仏できるや否や。

小島光造『回天特攻』

遺書・遺稿


都所 静世 少佐 
金剛隊伊号第36潜水艦 大津島より出撃
昭和20年1月12日
ウルシー海域にて突入 戦死
群馬県出身 海軍機関学校53期
20歳

 
  蒸し風呂のなかにいるようで、何をするのも億劫なのですけれど、やさしい姉上様のお姿を偲びつつ、最後にもう一度筆を執ります。
  (中略)
 艦内で作戦電報を読むにつけても、この先はまだまだ容易のことではないように思われます。若い者が、まだどしどし死ななければ、完遂も遠いことでしょう。それにつけても、いたいけな子供等を護らねばなりません。私は玲ちゃんや美いちゃんを見るたびに、いつも思いました。こんな可愛い純真無垢な子供を洋鬼から絶対に守らねばならない。自分は国の為・・・と言うより、寧ろこの可憐な子供たちの為に死のう。自由主義華やかなりし頃に育ち、この国を壊しての大戦争の真っ只中、自分のことしか考えない三十過ぎの男や女なんかくそ食らえだと。この大戦争の進直に最も阻害となっているのは、実は日本のお母さんであると申します。自分の子が軍籍に入る事をきらう。殊に危険な飛行機、潜水艦方面に行く事を止める。挺身隊に出る事は、躾が崩れる様に思っていやがる。そのくせ自分のこと、殊に衣食となると、ヤミも敢えて辞さないと言う。こんな事で戦争に勝てるでしょうか。口でばかり偉そうなことを言って、実際見聞きするに堪えないような忌まわしい事が、如何に多い事でしょうか。
  (中略)
 しかし、こんな事にこだわるのは、まだ小さいのです。実際今では、そんな気持ちは少しもありません。生意気の様ですが無に近い境地です。攻撃決行の日は日一日と迫って参りますが、別に急ぐでもなく、日々平常です。陽に当たらないので段々食欲もなくなり、痩せて肌が白くなってきましたが、日々訓練、整備の傍らトランプをやったり、蓄音機に暇を潰しています。 

 今六日〇二四五なのですが、一体午前の二時四十五分やら、午後の二時四十五分やら、とにかく、時の観念はなくなります。

 姉上様もうお休みの事でしょうね。いま「総員配置につけ」がありました。では、これでさようならします。軍機に関する事は一切書かなかったつもりですが、何か知り得た様な事がありましたら、ご他言下さいませんように。尚その際は、消却方お願いします。

 姉上様の、末長くご幸福でありますよう、南海の中よりお祈り申し上げます。

一月六日
 静世

姉上様

 

 

『人間魚雷回天―命の尊さを語りかける、南溟の海に散った若者たちの真実』

Sunday, February 28, 2016

最後の手紙


陸軍少尉 瀬田 万之助 命
昭和二十年三月七日 比島クラークにて戦病死
東京外国語学校
三重県四日市市北町出身 二十一歳

 この手紙、明日内地へ飛行機で連絡する同僚に託します。無事お手許に届くことを念じつつ、筆を執ります。
 目下戦線は膠着状態にありますが、何時大きな変化があるかもしれません。それだけに何か不気味なものが漂っています。
 生死の境を彷徨していると、学生の頃から無神論者であった自分が、今更の様に悔やまれます。死後、どうなるか? といった不安よりも、現在、心のよりどころのない寂しさといったものでしょうね。その点信仰厚かった御両親様の気持が判るような気がします。
 何か宗教の本をお送り願えれば幸甚です。───
 マニラ湾の夕焼けは見事なものです。こうしてぼんやりと黄昏時の海を眺めていますと、どうしてわれわれは憎しみ合い、矛を交えなくてはならないかと、そぞろ懐疑的な気持になります。───
 兄上、姉上、そして和歌子ちゃんにくれぐれもよろしく。
 早々不一
 昭和二十年三月五日
瀬田 万之助
 父 上 様
 母 上 様

 靖國神社編『英霊の言の葉(2)』所収

Friday, September 21, 2012

どこかに不幸な人がいたら


人の世の苦しみに泣いたおかげで
人の世の楽しみにも心から笑える
打たれて踏まれて唇を噛んだおかげで
生まれてきたことの尊さがしみじみ分る
醜い世の中に思わず立ちあぐんでも
見てごらん ほら あんなに青い空を
みんなが何も持ってないと人が嘲っても
みんな知っている、もっと美しい本当に美しい尊いものを
愛とまことと太陽に時々雨さえあれば
あとはそんなにほしくない
丈夫なからだとほんの少しのパンがあれば

上機嫌でニコニコ歩きたい

それから力いっぱい働こう
そうして決して不平は云わずに
何時も相手の身になって物事を考えよう
いつもつらくても決してひるまずに

どこかに不幸な人がいたら
どんなことでも力になってあげよう
もしすっかり自分を忘れてして上げられたら
もうそれできっと嬉しくてたまらないだろう

朝 お日様が昇るときは
あいさつに今日もやりますと叫びたい
夕べ お日様が沈むときは
夕焼け空をじっと見つめて座っていたい

心にいつもささやかな夢をいだいて
小鳥のようにそっと眠り
ひまがあったらふるい詩集をひもといて
ひとり静かに思いにふけりたい

幸せは自分の力で見出そうよ
真珠のような涙と太陽のような笑いの中に

今日もまたあしたも進んでいこうよ
きっといつの日か振りかえって静かに微笑めるように


 (以上、上野千里氏の遺言)

この詩を作った人は、グアム島の戦犯収容所で、絞首刑になって死んだ上野千里という人である。元海軍軍医中佐で、四十歳で刑死した。落下傘で降下した米軍操縦士の傷を手術中に「殺せ」という命令を受けたかれは、これを拒否してなおも手術を続行している最中に爆撃を受け、一時退避して再び取って返したとき、その米兵は何者かに刺殺されていた。その責任を問われ、絞首刑となったのである。
かれは無実であった。上官の罪を背負い、部下の罪を引っ被って刑死したのである。(p.229)

紀野一義 『維摩経』



遺書

特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉彈として散華せり
然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり
吾死を以て旧部下の
英霊と其の遺族に謝せんとす

次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自重忍苦するを誡ともならば幸なり
隠忍するとも日本人たるの衿持を失ふ勿れ
諸子は國の寶なり

平時に處し猶ほ克く特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世界人類の和平の為
最善を盡せよ

海軍中将大西瀧治郎


「之でよし百萬年の仮寝かな


「すがすがし暴風の後月清し