人が嘘をついたとしたら、三つのアパーヤ[=地獄] のどこに行くのでしょうか。それは嘘の強弱によります。 回数が少なければ、そんなに大罪になりません。 それよりひどいのは、罪を正当化することです。
これはものすごく危険です。悪いことをしても、「 それはしょうがないよ。やらないといけない状況だったんだから」 といって正当化してはいけないのです。罪を正当化すれば、 罪が重くなります。小さな罪が大罪にまで膨らむのです。・・・
罪の正当化と並んで、罪の意識がないことも危ないのです。・・ 不正を続けていると罪の意識がなくなるでしょう。五, 六年続けると、あたりまえのことになってしまいます。・・ だからといって罪がないとはいえないのです。・・ 知恵の開発に欠かせない脳の機能を破壊しているのですから。( p.190)
A・スマナサーラ『死後はどうなるの?』
要約すると、もし悪いことしたまま死んだら、
要約すると、もし悪いことしたまま死んだら、
①罪や、ついた嘘などの強弱
②その回数
③それを正当化するか
④罪の意識があるか、ないか
・・などの条件によって次に生まれるところが自動的に決まる。
またほとんどの者がそうだろうが、すでに罪を犯している者が
良い所に生まれ変わりたいなら、
①罪をくり返さない
②懺悔する
③犯した罪よりたくさんの良いことをする
・・ことで罪が弱くなる。
さて以前、読んだ司法試験合格のための本に「
それでも世の中には、死という関門の厳しさに前もって気付き、 最悪の場合も考慮して心の備えをする者も少なからずいる。 すなわち上記スマナサーラ長老著『死後はどうなるの?』で説かれる如く、地獄があったら困るような生き方は避ける、 道徳的な人間である。
さて冒頭の司法試験の喩えで言えば、「 試験なんてものは本当は存在しないんだよ、空(くう)だ」とか、 「神や仏に祈ってりゃ努力なんてしなくても司法試験だって皆、 合格できるさ」、と教える者の言うことを聞くのだろうか? それとも昔から難しいといわれている関門なのだから「 最善の努力しなければ善い結果は得られませんよ」 と説く者の言うことを聞くのだろうか?
さて冒頭の司法試験の喩えで言えば、「
このブログの読者諸兄はどのタイプだろうか?
善い領域(=天)におもむく人々は少ない。
悪い領域(=地獄など)におもむく人々は多い。
このことわりをあるがままに知ったならば、
安らぎ(ニルヴァーナ) に専念するものとなるであろう。
『感興のことば=ウダーナヴァルガ』26.8